倫理的は論理的

ジェイさんの文章を初めて読んだとき、目を引かれたのがethical(倫理的な)という単語が何度も出てくることでした。

倫理的という言葉は、それほど日常的な言葉ではありません。政治家の汚職事件の際に言われる「政治倫理が問われる」といった表現や、犯罪報道の中で「倫理観が欠如している」などといった表現などで目にする程度でしょうか。

倫理とは、人が生きていくうえで、ある行為をすることが「よいか、悪いか」― 自分にとって、あるいは誰かにとって「有利か、不利か」「得になるか、損になるか」ということではなく、「人間としてこうすることが善であるのか悪であるのか」、という判断の基準となるものです。それが法律に関する文章などではなく、マーケティングの文脈の中で登場することに驚いたのでした。

やがてジェイさんが、マーケティングは非常に大きな力を持つものであり、その力をもってすれば、良いことも悪いこともできる、と述べておられる箇所にも行き当たりました。また別の文脈でも、繰り返し、「マーケティングは人をmanipulate(操る)ものではありません」と言っておられることも目にしました。

そのころ偶然、私は宮部みゆきの『ペテロの葬列』という小説を読みました。その中に興味深い人物が出てくるのです。

不幸な幼少期を過ごした頭脳明晰な登場人物は、世間を見返してやろうと、相手がどんな人間であるのかをたちどころに見抜く直観力と、持ち前の巧みな弁舌、カリスマ性を生かして、1970年代、怪しげな自己啓発セミナーのトレーナーとなります。そうして多くの人をだまし、詐欺の片棒をかつぐようになるのです。

それを見て、私ははっきりと腑に落ちたのです。だからこそ倫理的であることが必要なのだ、と。
同じように鋭い直観力と、適格な言葉の使用、カリスマ性を備えているジェイさんとその登場人物が、決定的に異なっているのは、まさにその点だったのでした。

小説の中にも「人を教え導くというのは、本来、非常に尊い技だ。難しい技でもある。そうそう誰にでもできることではない。だからこそ教育者には適性というものがあるはずだ。だが、適性だけでは道を誤ることがある。教育の目的の正邪を見極める良心を欠いてしまえば」という言葉が出てくるのですが、ジェイさんは個々人の心のはたらきというニュアンスの強い、いくぶん曖昧なところのある「良心」という言葉ではなく、もっと社会性の強い「倫理」という言葉を選ばれたのだと思いました。

では、自分の行為が「倫理的」に見て間違いがない、と担保するのは、いったい何なのでしょうか。

ジェイさんはあるインタビューの中で、このように話しておられます。

人生には3つの要素があります。倫理、公平、法律の3点です。法律というものは、法律家がちょっと変わった解釈をしたぐらいでは、変えることはできません。
しかし倫理と公平は非常に主観的です。私がいつも見極めたいと考えているのは、その企業や業界が、私の目から見て、理にかなった運営をしているかどうかです。

ここでジェイさんは「倫理的なビジネスを行っている企業は、理にかなった運営をしている」と述べておられるのです。

「倫理的な人」というと、私などはどうしても「雨ニモマケズ」に出てくる、宮沢賢治が「ワタシモナリタイ」といった人のことをつい想像してしまうのですが、その人の生き方は果たして論理的と言えるのでしょうか? この人は周囲の人々を幸せにすると言えるのか。また、持続可能性といった観点から見るとどうでしょう?(ちなみに宮沢賢治自身は土地改良に尽力したことが知られています)

以前、翻訳チームのメンバーが「翻訳裏話」の中で、ジェイさんの言葉を紹介してくれました。

あなたの会社で働く人は、あなたに一生を捧げているのです。彼ら、彼女らがあなたに必要とされていること、大切に思われていることを感じさせてあげなくては。シングルマザーの社員がいるのであれば、彼女のためにもっと何かできることはありませんか?彼女の息子さんのために何かしてあげていますか?(「commitment」)

先日のテレビ会議のセッションの中で、このジェイさんのアドバイスを実行に移した方から、アドバイスのおかげで利益が3倍にもなった、という結果報告があったのです。

倫理を論理的に実践することが大きな結果を出した、というまぎれもない実例がここにありました。

論理的とは、ちょうど1+1の答えが、誰がどこでやっても2になるように、三角形の内角の和が、いつでもかならず180度であるように、いつ、誰が、どこで行っても、かならずそうなるような、普遍的なことです。

嘘をつこうと思えば、自分以外の人が正直でなければ、嘘は成立しません。全員が嘘つきであれば、嘘はもはや嘘としての意味を失います。「犯罪は割に合わない」と言いますが、みんなが犯罪を犯し合っているような社会は、誰も長くは生きていられないことを考えると、この言葉は、倫理的にばかりでなく、論理的に考えてもその通りなのです。

自分だけが得をするような行為は、論理的とは言えませんし、逆に、自分だけが我慢する行為というのもまた、論理的とはいえません。
その意味でも「私は論理的な人間です」とおっしゃるジェイさんは、同時にきわめて倫理的な人でもあるのでしょう。

長い年月にわたって、一流のマーケターであり続けてきたジェイさんからは、マーケティングだけでなく、実に様々なことが学べると思うのでした。


ハットリサトコ
ShimaFuji IEM 翻訳チームの一員です。

神は細部に宿る、という言葉は、まさに翻訳のためにある、と信じ、言葉ひとつひとつと格闘する毎日です。残念ながら、木を見て森を見ず、どころか、葉っぱ1枚の葉脈に目を奪われて、森の存在を忘れることもしばしば。