近くて遠い「あなた」との関係
翻訳を学ぶ人が最初に習うことは、おそらく「代名詞を訳さない」ということでしょう。
いわゆる直訳から、日本語らしい日本語にするための第一歩が、「代名詞」を訳さない、ということなのです。
たとえばこの文章。山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
夏目漱石の有名な『草枕』の冒頭です。
仮にこの文章が英訳されていて、その英文を直訳したとすると、たぶんこんな日本語になるはずです。
私は山路を上りながら、もしある人が論理的に行動したならば、
彼または彼女は多くの問題を引き起こすことだろう、
逆に、彼が周囲の人々の感情に調子を合わすならば、
彼は状況に巻き込まれてしまうだろう、
かといって、彼が自分の意思を押し通したとすると、
彼は思うようには行動できないだろう、と考えた。
うわ、直訳だ、と思いませんでしたか?
もちろん「智に働く」など、独特の言い回しの言い換えもあるのですが、何より動作主体、すなわち主語をすべて挿入しているために、いかにも英語らしい?日本語になってしまうわけです。
小説ばかりではありません。この文章を見てください。
携帯電話やパソコンに向かってインターネットを自由気ままに使用していると相手が自分と同じ人間であることを忘れがちになり、知らない間に人を傷つけたり、法律に違反したりする可能性もあります。(引用:「ネットエチケットについての注意書」)
おもしろいことに、この文章にも主語がありません。でも、私たちは特に「誰の話をしているんだ?」と疑問も抱かず、文章を読み、理解しているはずです。ところが、これは英文だと、Youという主語を補わなければ、文章として成立しないのです。
この場合のYouは、人一般を指す「総称人称」というもので、特に意味はないために、日本語には訳出しない、というルールが辞書にも書いてあります。
私もジェイさんの文章に出会うまでは、できるだけ代名詞を訳さず、特に「総称人称」は訳さない、という規則を守っていました。
ところが、です。
ジェイさんの文章は、Youが非常によく出てくるのです。
このYou、どうも「総称人称」ではない、明らかに読み手に向かって「あなた」と呼びかけている…。
それが私の思い込みだけではないことは、すぐにわかりました。
ジェイさんは自分の文章の中でしきりに、Youと呼びかけるだけでなく、広告のヘッドラインやセールスレターでも、YouやYourという語を多く使うように、とはっきり言っています。総称人称ではない、今これを読んでいる「あなた」に向かって、語りかけなさい、と。
でも、ここで問題があります。
「あなた」という言葉は日本語として収まりの良い言葉ではないんです。
たとえば、
私たちはあなたにAAAというご提案をいたします。
あなたはこれまで~のようなときに、不満をお感じではありませんでしたか?
私たちは研究開発の結果、__という問題を解決いたしました。
あなたもきっとAAAには満足していただけると思います。
こんなダイレクトメールをもらうと、日本人的な感覚だと、ちょっと違和感を覚えたりしませんか?(あるいは、きっとこれは外資系だな、と思う)
そもそも私たちは日常で「あなた」という呼びかけを、対面する相手にあまりしません。「あなた」という呼びかけを使う人というと、真っ先に思い出すのがマスオさんを呼ぶサザエさんです。でも、夫に対してこんな呼びかけをする女性も、今の日本ではむしろ少数派ではないでしょうか。
二人称とは、一人称である「私」が呼びかける相手です。
日本語では一人称が「わたし」「ぼく」「おれ」「わたくし」「拙者」「吾輩」「おいら」「うち」…などと目まぐるしく変わるのに合わせて
「あなた」「君」「あんた」…と変わっていきます。それだけでなく、特に日本では「お父さん」「先生」「社長」…というように、話し手との関係性を反映した呼びかけが、日常的によく使われます。
そもそも「あなた」を使うと、親しみとはちがうニュアンスが現れてくる、とは思いませんか?
「あなたの問題点はね…」あとに続くのは、お説教、はたまた別れ話?
ですから、セールスレターを訳すときは「あなた」の代わりに「__様」という呼びかけを当てはめました。
英語だと、Mr.~というよそよそしい、それこそビジネスライクな響きがあって、決して好まれないこの呼びかけが、それでも日本語では、「ほかの誰でもない、__さんに話しかけているんですよ」
というニュアンスを伝えることができて、一番近いかな、と思ったのです。
ジェイさんの文章の中で「あなた」と訳されている箇所が目についたら、どうか今、この文章を読んでいらっしゃる「あなた」に、直接ジェイさんが話しかけている、と思ってほしいのです。それが伝わるよう、私たちもできるだけ、語りかけるような文体を心掛けています。
そうして、セールスレターなどのテキストの文中で、「__様」とあったら、今度は「あなた」が、話しかける相手の顔を思い浮かべながら、読んでみてほしいのです。 (ハットリサトコ)
ハットリサトコ:ShimaFuji IEM 翻訳チームに所属しております。
社会学系読み物や、フィクションの下訳、Webライターなど、さまざまな仕事を経て、ジェイ・エイブラハムの『限界はあなたの頭の中にしかない』と巡り合い、従来のビジネス書にはなかった深い思想性に強い共感を覚え、現代の社会でもっと多くの人に読んでもらいたい! と強く思うようになりました。難解なジェイさんの思想と取っ組み合いをしながら、チームのみなさんと、あーでもない、こーでもない、と頭をひねる毎日です。
ジェイさんを始め、さまざまな方の翻訳を通して、発見したことや気づいたことなど、お伝えしていけたらな、と思っています