ジェイさんがニュースレターや書籍の中で、好んで引用される言葉に、ソクラテスの
”A life unexamined is a life not worth living.”
(吟味されることのない人生は、生きるに値しない)
というものがあります。
このunexmamineという言葉は、examineという動詞の否定形なのですが、examineという言葉、日本では「試験」を意味するexaminationという名詞形で有名な言葉かもしれません。語源的には検査する、測定する、という意味から、検討する、吟味する、試験する、といった意味として使われています。
ソクラテスのこの言葉は、上に挙げた訳が「定訳」となっていて、微妙な差はあっても、いずれも「吟味」という言葉が使われています)。
ただ、この文章だけを取り出してみたとき、現代に生きる私たちの感覚として、「吟味」という言葉は少しピンとこないものになっているのではないでしょうか。
本来「吟味」という言葉は
1. 詩歌を吟じ、そのおもむきを味わうこと
2. 物事を詳しく調べて選ぶこと
3. 罪状を調べただすこと。詮議。
…(以下略)(広辞苑)
となっているのですが、少しこれも私たちが感じる言葉の印象とは違いませんか?
試しにgoogleで検索してみると、「吟味屋」という料理屋がたくさんヒットするように、「味」がつくことからか、試す、というより、特に食物などを(ほかの味と比較したり試したりしながら)深く味わう、という意味に近くなっているように感じるのです。
たとえば「あなたの生活の質を吟味する」といった場合、さまざまな数値を基にしてQOLを検査する、というよりもむしろ実感としての生活の心地よさ、味わい深さを測るといったニュアンスを感じます。
そのため、ジェイさんのテキストでこの文章が引用されている場合、かならずしも定訳がふさわしくない場合もあるのです。たとえばその引用句に続いて「目に見える要因も見えない要因も、適切にテストし、重ねてテストすることを続けないビジネスは、運営するに値しません」という文章があった場合は、「吟味されることのない人生など、生きるに値しない」というより、「試されることのない人生など、生きるに値しない」と訳した方が、すっと意味が入っていくように思うのです。
ところで「試されることのない人生は、生きるに値しない」といったとき、「吟味されることのない人生など、生きるに値しない」よりも、何かずっと厳しい印象を受けます。
それは、私たちが人生の過程で、実際にいくつもの「試される」経験をしてきて、そこでつちかわれた印象なのかもしれません。
点数の結果によって、合格、不合格が否応なくつきつけられる「試験」。
この会社に自分がふさわしい人間であるかどうかが試される「試用期間」。
勝ちと負けの結果が、この上なく明確についてしまう「試合」。
曖昧なものを許さない、白か黒かの判定をはっきりつけるものが「試す」であるかのような。
ところがこの「試す」という言葉が、やはり「味」に関係があることをご存じですか?
「試」には「ごんべん」がついていますが、古代は「ごんべん」ではなく、食物を口に入れる意味をあらわす「口」の上に「▽」がついたものでした。つまり、古代人が新しいものを目にしたとき、最初におそるおそるなめたり、かじったりしてきたことが「試す」の語源。ですから「吟味」本来の意味と重なり合っているのもうなずけます。
私たち人間は、驚くほど多種多様なものを食べていて、見かけがグロテスクだったり、毒があるものを加工して、何とか食べられるように工夫した食物を見るたびに、古代人たちの飽くなき探求心に驚くのですが、古代人たちがそうやってひとつずつ「試」しているところを思うと、なんとなくほほえましく思えてきます。
人間以外の動物たちが、ほぼ食べるものが定まっているのに対し、人間の食物の多様性を思うと、「食べられるものなら何でも食べてやろう」という冒険心が、人間と動物を隔てている大きな違いなのかもしれません。
「試す」の根っこのところに、この「冒険心」がある。
そう思うと、なんだか楽しくなってきます。
冒頭のソクラテスの言葉は、『ソクラテスの弁明』という本の中に出てきます。
古代ギリシアで、ソクラテスは道行く青年たちをつかまえては、「徳とは何か」「美とは何か」と問いかけていました。それがジェイさんも使っている「ソクラテス式問答」です。問いかけに、ありきたりな答えを返す相手に対して、一般的に言われていることを深く吟味し、さまざまな条件を想定して試し、もっと考えを深めていくよう導いていったのです。
ところがギリシアの権力者たちは、自分たちが批判されていることを快く思わず、何とかしてそれを止めさせようとしました。一向に言うことを聞かなかったソクラテスは、とうとう死刑まで宣告されてしまったのです。本当は、死刑にしたかったのではなく、謝らせたい、逃亡させて恥をかかせてやりたい、というぐらいの気持ちだったのですが。
その死刑宣告に対して、ソクラテスは、自分にとって対話活動は、自分と他人の考えを吟味しながら、徳やそのようなことがらについて議論するものであり、それ以上に大切なものは存在しない(それが冒頭の言葉の意味です)として、死刑を受けることになります。
先にも言ったように、試す、吟味する、この言葉の根っこには、人間の「自分の世界を広げてやろう」という冒険心があります。その冒険の結果、ときにソクラテスのように、あるいはフグを食べて命を落とした人のように、大きな代償を払わなければならないこともあるのかもしれません。
でも、新しい試みのために、命を落とす必要は、今の私たちにはありません。
ジェイさんの言うように「小さいテストを繰り返す」。それだけで、きっと自分の世界も広がっていくはずです。逆に、 世界を広げることも望まず、同じことを繰り返して、どんどん空疎なものになっている生活では、試すことの必要もないでしょう。
ときに失敗してへこんだり、人から厳しい批判を投げかけられたリしたとしても「試されることのない人生は、生きるに値しないのだ」と、前を向いて、冒険心を忘れないで、生きていきたいものだと思います。
ハットリサトコ:ShimaFuji IEM 翻訳チームに所属しております。
社会学系読み物や、フィクションの下訳、Webライターなど、さまざまな仕事を経て、ジェイ・エイブラハムの『限界はあなたの頭の中にしかない』と巡り合い、従来のビジネス書にはなかった深い思想性に強い共感を覚え、現代の社会でもっと多くの人に読んでもらいたい! と強く思うようになりました。難解なジェイさんの思想と取っ組み合いをしながら、チームのみなさんと、あーでもない、こーでもない、と頭をひねる毎日です。
ジェイさんを始め、さまざまな方の翻訳を通して、発見したことや気づいたことなど、お伝えしていけたらな、と思っています。