なぜ話は通じないのか

12月のビジネスサミットと経営塾は、ジェイさんのお話を実際にうかがうことのできる得難い機会でもありました。

そこで何よりも驚いたのは、ジェイさんの話し言葉がとんでもなく難しかったことです。もちろんこれまでにもDVDや講演、Q&Aなどでもそのことの一端は見知っていました。でも、これほどとは…。

通常どんな人でも、話し言葉と書き言葉はちがいます。よく英会話の本に「日常会話は中学2年程度の英語で十分」と書いてありますが(そのことの正否はともかく)、確かにどれほどむずかしいことを書いている人でも、話し言葉と書き言葉のレベルが一緒、ということは、まずありません。だからこそ、難解な本を書く人でも、話し言葉でなされる講演なら理解できる、ということが起こるのです。

ところがジェイさんは書き言葉で話す人でした! 同時通訳の方ともお話したのですが、ちょっと辞書を引かなければわからないような単語を平然と混ぜてくる、大変な方だとおっしゃっておられ、ご苦労がしのばれました。

ところが、です。実は、同時通訳の方がジェイさんの英語より、もっと苦労された場面があったのです。それは、同じ日本人である参加者の方が話す日本語を、英語に通訳しようとする場面で起こったことでした。通訳の方は、訳そうにも話の筋道が見えず、一体何の話をしているのかわからないため、言葉が継げなくなり、立往生してしまわれたのでした。実際に会場にいた私も、ひとつひとつの言葉はわかるはずなのに、その話の趣旨がどうにもわからず、頭をひねるばかりでした。

いったん休憩となって控室へ行ってから、ジェイさんからも
「日本人の話は何を言っているのかわからない、どうしてあんな話し方をするのか」と言われました。

結局、もっと短く、主語プラス述語、という形で話してください、
主語のあとかならず動詞が来る、という日本語で話してください、
とお願いすることで、ずいぶん事態は改善され、何とか事なきを得たのでしたが…。

それからしばらく地元へ帰ってからも、どうして日本人の話は伝わりにくいのだろう、と考えていました。
そこで思い出したのが「三段論法」です。

たとえばあるチクワは「合成保存料無添加」と袋に大きく書いてあります。添加物には表示義務はありますが、無添加であることをわざわざ書くのはなぜか? メーカー側は、実はこんな三段論法を使っているのです。

(大前提)合成保存料を添加していない食品は健康に良い。
(小前提)このチクワは無添加である。
(結論)したがってこのチクワは健康に良い。

ところがこの大前提は、私たちにとって「常識」であるから、あえていう必要がなく、
また、結論はあえて言わなくても、聞き手は察してくれるはず、
その結果、小前提だけが提示されているのです。

また「無添加だって。体によさそう」と私たちもそのような推論を瞬時に働かせているのです。

チクワばかりでなく、私たちのまわりには、この「小前提」があふれています。

聞かれてもいないのに
「オレはセンター試験で9割超えた」という人は、「センターで高得点を取る人は頭が良い」という(その人なりの)大前提を踏まえ、結論として「オレは頭がいいんだぜ」と自慢したい、でも自慢をするかわりに、そこを察してくれ、と言っているのでしょう。

誰かのことを書いた文章の最後に「ちなみに彼は1円単位まで割り勘にする」とつけたしたらどうでしょうか。
その人の印象はそれだけでグッと下がります。それは「ケチは小人物である」という大前提を踏まえ、「ゆえに彼は小人物である」という結論を隠した文章だからなのです。

広告の文章にもこの「小前提」は大活躍です。
「買ってください」と結論を言わずに「売れ筋ですよ」、
「参加してください」という代わりに「初心者にも簡単」……

ジェイさんのコピーライティングの記事を訳しながら、どうも英語の「むき出し感」は日本人には合わないな、という感覚がずっとぬぐえずにいたのですが、日本人は結論をいう代わりに小前提をそっと出して「察してください」というのがどうも好きらしいのです。

日本社会の同質性はよく指摘されることです。本当に同質かどうかはともかく、私たちの大多数は、どこかでそう思い込んでいる節があります。

同質な社会だからこそ、あえて大前提を明らかにしなくても通じる。
同質な社会だからこそ、あえて結論を明らかにしなくても察してもらえる。

だからこそ、私たちは多くの場面で「小前提」だけの表現ですませ、それを心地よく感じているのではないでしょうか。

ところがここで問題がひとつあります。
大前提を共有していなければ、小前提だけ聞かされてもわけがわからない、ということになるのです。

たとえば「合成保存料」が添加されているおかげで、チクワが日持ちする、と考えている人にとっては、「合成保存料無添加」という表示は逆効果に働きます。
また「合成保存料」が何のことかわからない人にとっては、「無添加」の表示は意味不明でしょう。

いつもかならず相手が大前提を共有してくれる、とは限らないのです。
おそらく会場で、通訳の方が趣旨をつかめなかった方の話も同業の方であれば、十分に理解できる話だったのでしょう。
そしてまた結論に「察し」はついたのでしょう。

改めて考えるのです。
私たちが「これは~だ」という言葉には、どんな状況や判断が、大前提となっているのでしょうか。
それは、誰もが共有できるものなのでしょうか。
ひとりよがりの考えや判断を大前提として、それを踏まえて「小前提」を提示し、聞き手に「察してください」と言っているのではないでしょうか。

そこを私たちがもう少し深く考えるようになった時、たとえ英語ができなくても、通訳の方を困らせない日本語が話せるようになるかもしれません。



ハットリサトコ
ShimaFuji IEM 翻訳チームの一員です。神は細部に宿る、という言葉は、まさに翻訳のためにある、と信じ、言葉ひとつひとつと格闘する毎日です。残念ながら、木を見て森を見ず、どころか、葉っぱ1枚の葉脈に目を奪われて、森の存在を忘れることもしばしば。

言葉の探偵

翻訳をしているとき、「この場面で最適な日本語は何だろうか」と考えていると、自分が探偵になったような気分になります。

ジェイ・エイブラハム氏の英語を和訳するとき、一番の手がかりとなるのはその原文ですが、ウェブサイトや著書を参考にすることもあります。また、言葉の手がかりとして、各種辞書は欠かせません。

意外にも、英語圏の小説(原書・日本語版)が役に立つこともあります。小説の表現で頭を柔らかくしておくと、師独特の言い回しを訳すときに脳内の日本語と英語のパイプラインがスムーズに働くのです。

つい先日も、探偵のように言葉を探したことがありました。同じ文書内に、rewardとpayoffという言葉が登場しました。さらには、remunerationという見慣れない言葉もありました。

まずは手がかりの1つ目、周囲の文章を見渡します。rewardもpayoffも似たような文脈だったので、この2つが示す意味も似ていると推測しました。Remunerationも、前後の文脈からrewardやpayoffと同じような意味だと推測できました。

また、話の内容だけではなく、具体例を挙げて話しているのか、段落のまとめとして抽象的に話しているのか、ということも見ていきます。それによって選ぶ言葉が変わってくるからです。

そして手がかりの2つ目、辞書を引いてみます。英英辞書でそれぞれの意味を調べてみると、reward、payoff、remuneration、それぞれ少しずつ意味が異なることがわかりました。

次に、英和辞書でそれぞれの英語に対応する日本語を調べてみます。報酬、見返り、謝礼、利益、メリットなどの日本語が出てきました。ここで、日本語の意味を国語辞典で調べたり、類語辞典を引いて訳語の候補を増やすときもあります。ある英単語が複数の場面に登場する場合は、それぞれの場面で異なる訳語をあてたほうがよいこともあるからです。

このときは、rewardが何回か登場していました。翻訳チームで話し合った結果、ある文章では「報酬」、別の文章では「見返り」という訳語をあてることにしました。また、payoff は利益、remunerationは報酬という訳語にしました。

探偵のようだとは思いつつも、答えはいつも必ず1つ、とはかぎらないのが翻訳の醍醐味でもあり、悩みどころでもあります。

(watanabe_makiko)

watanabe_makiko

watanabe_makiko:

ShimaFuji IEM 翻訳チームの一員です。
難解な言葉や韻を踏んだ表現、英語圏独特の考え方に出会うとワクワクします。その英語を通して、書き手や話し手の人柄が表われているからです。どのような日本語に訳していこうか、と考えながら日々格闘しています。

試されることと生きること

ジェイさんがニュースレターや書籍の中で、好んで引用される言葉に、ソクラテスの
”A life unexamined is a life not worth living.”
(吟味されることのない人生は、生きるに値しない)
というものがあります。

このunexmamineという言葉は、examineという動詞の否定形なのですが、examineという言葉、日本では「試験」を意味するexaminationという名詞形で有名な言葉かもしれません。語源的には検査する、測定する、という意味から、検討する、吟味する、試験する、といった意味として使われています。

ソクラテスのこの言葉は、上に挙げた訳が「定訳」となっていて、微妙な差はあっても、いずれも「吟味」という言葉が使われています)。
ただ、この文章だけを取り出してみたとき、現代に生きる私たちの感覚として、「吟味」という言葉は少しピンとこないものになっているのではないでしょうか。

本来「吟味」という言葉は
1. 詩歌を吟じ、そのおもむきを味わうこと
2. 物事を詳しく調べて選ぶこと
3. 罪状を調べただすこと。詮議。
…(以下略)(広辞苑)
となっているのですが、少しこれも私たちが感じる言葉の印象とは違いませんか?

試しにgoogleで検索してみると、「吟味屋」という料理屋がたくさんヒットするように、「味」がつくことからか、試す、というより、特に食物などを(ほかの味と比較したり試したりしながら)深く味わう、という意味に近くなっているように感じるのです。

たとえば「あなたの生活の質を吟味する」といった場合、さまざまな数値を基にしてQOLを検査する、というよりもむしろ実感としての生活の心地よさ、味わい深さを測るといったニュアンスを感じます。

そのため、ジェイさんのテキストでこの文章が引用されている場合、かならずしも定訳がふさわしくない場合もあるのです。たとえばその引用句に続いて「目に見える要因も見えない要因も、適切にテストし、重ねてテストすることを続けないビジネスは、運営するに値しません」という文章があった場合は、「吟味されることのない人生など、生きるに値しない」というより、「試されることのない人生など、生きるに値しない」と訳した方が、すっと意味が入っていくように思うのです。

ところで「試されることのない人生は、生きるに値しない」といったとき、「吟味されることのない人生など、生きるに値しない」よりも、何かずっと厳しい印象を受けます。
それは、私たちが人生の過程で、実際にいくつもの「試される」経験をしてきて、そこでつちかわれた印象なのかもしれません。

点数の結果によって、合格、不合格が否応なくつきつけられる「試験」。
この会社に自分がふさわしい人間であるかどうかが試される「試用期間」。
勝ちと負けの結果が、この上なく明確についてしまう「試合」。
曖昧なものを許さない、白か黒かの判定をはっきりつけるものが「試す」であるかのような。

ところがこの「試す」という言葉が、やはり「味」に関係があることをご存じですか?
「試」には「ごんべん」がついていますが、古代は「ごんべん」ではなく、食物を口に入れる意味をあらわす「口」の上に「▽」がついたものでした。つまり、古代人が新しいものを目にしたとき、最初におそるおそるなめたり、かじったりしてきたことが「試す」の語源。ですから「吟味」本来の意味と重なり合っているのもうなずけます。

私たち人間は、驚くほど多種多様なものを食べていて、見かけがグロテスクだったり、毒があるものを加工して、何とか食べられるように工夫した食物を見るたびに、古代人たちの飽くなき探求心に驚くのですが、古代人たちがそうやってひとつずつ「試」しているところを思うと、なんとなくほほえましく思えてきます。

人間以外の動物たちが、ほぼ食べるものが定まっているのに対し、人間の食物の多様性を思うと、「食べられるものなら何でも食べてやろう」という冒険心が、人間と動物を隔てている大きな違いなのかもしれません。
「試す」の根っこのところに、この「冒険心」がある。
そう思うと、なんだか楽しくなってきます。

冒頭のソクラテスの言葉は、『ソクラテスの弁明』という本の中に出てきます。

古代ギリシアで、ソクラテスは道行く青年たちをつかまえては、「徳とは何か」「美とは何か」と問いかけていました。それがジェイさんも使っている「ソクラテス式問答」です。問いかけに、ありきたりな答えを返す相手に対して、一般的に言われていることを深く吟味し、さまざまな条件を想定して試し、もっと考えを深めていくよう導いていったのです。

ところがギリシアの権力者たちは、自分たちが批判されていることを快く思わず、何とかしてそれを止めさせようとしました。一向に言うことを聞かなかったソクラテスは、とうとう死刑まで宣告されてしまったのです。本当は、死刑にしたかったのではなく、謝らせたい、逃亡させて恥をかかせてやりたい、というぐらいの気持ちだったのですが。

その死刑宣告に対して、ソクラテスは、自分にとって対話活動は、自分と他人の考えを吟味しながら、徳やそのようなことがらについて議論するものであり、それ以上に大切なものは存在しない(それが冒頭の言葉の意味です)として、死刑を受けることになります。

先にも言ったように、試す、吟味する、この言葉の根っこには、人間の「自分の世界を広げてやろう」という冒険心があります。その冒険の結果、ときにソクラテスのように、あるいはフグを食べて命を落とした人のように、大きな代償を払わなければならないこともあるのかもしれません。

でも、新しい試みのために、命を落とす必要は、今の私たちにはありません。
ジェイさんの言うように「小さいテストを繰り返す」。それだけで、きっと自分の世界も広がっていくはずです。逆に、 世界を広げることも望まず、同じことを繰り返して、どんどん空疎なものになっている生活では、試すことの必要もないでしょう。

ときに失敗してへこんだり、人から厳しい批判を投げかけられたリしたとしても「試されることのない人生は、生きるに値しないのだ」と、前を向いて、冒険心を忘れないで、生きていきたいものだと思います。


hattori01ハットリサトコ:ShimaFuji IEM 翻訳チームに所属しております。
社会学系読み物や、フィクションの下訳、Webライターなど、さまざまな仕事を経て、ジェイ・エイブラハムの『限界はあなたの頭の中にしかない』と巡り合い、従来のビジネス書にはなかった深い思想性に強い共感を覚え、現代の社会でもっと多くの人に読んでもらいたい! と強く思うようになりました。難解なジェイさんの思想と取っ組み合いをしながら、チームのみなさんと、あーでもない、こーでもない、と頭をひねる毎日です。
ジェイさんを始め、さまざまな方の翻訳を通して、発見したことや気づいたことなど、お伝えしていけたらな、と思っています。

近くて遠い「あなた」との関係

翻訳を学ぶ人が最初に習うことは、おそらく「代名詞を訳さない」ということでしょう。
いわゆる直訳から、日本語らしい日本語にするための第一歩が、「代名詞」を訳さない、ということなのです。

たとえばこの文章。山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

夏目漱石の有名な『草枕』の冒頭です。
仮にこの文章が英訳されていて、その英文を直訳したとすると、たぶんこんな日本語になるはずです。

私は山路を上りながら、もしある人が論理的に行動したならば、
彼または彼女は多くの問題を引き起こすことだろう、
逆に、彼が周囲の人々の感情に調子を合わすならば、
彼は状況に巻き込まれてしまうだろう、
かといって、彼が自分の意思を押し通したとすると、
彼は思うようには行動できないだろう、と考えた。

うわ、直訳だ、と思いませんでしたか?
もちろん「智に働く」など、独特の言い回しの言い換えもあるのですが、何より動作主体、すなわち主語をすべて挿入しているために、いかにも英語らしい?日本語になってしまうわけです。
小説ばかりではありません。この文章を見てください。

携帯電話やパソコンに向かってインターネットを自由気ままに使用していると相手が自分と同じ人間であることを忘れがちになり、知らない間に人を傷つけたり、法律に違反したりする可能性もあります。(引用:「ネットエチケットについての注意書」)

おもしろいことに、この文章にも主語がありません。でも、私たちは特に「誰の話をしているんだ?」と疑問も抱かず、文章を読み、理解しているはずです。ところが、これは英文だと、Youという主語を補わなければ、文章として成立しないのです。

この場合のYouは、人一般を指す「総称人称」というもので、特に意味はないために、日本語には訳出しない、というルールが辞書にも書いてあります。

私もジェイさんの文章に出会うまでは、できるだけ代名詞を訳さず、特に「総称人称」は訳さない、という規則を守っていました。
ところが、です。
ジェイさんの文章は、Youが非常によく出てくるのです。
このYou、どうも「総称人称」ではない、明らかに読み手に向かって「あなた」と呼びかけている…。

それが私の思い込みだけではないことは、すぐにわかりました。

ジェイさんは自分の文章の中でしきりに、Youと呼びかけるだけでなく、広告のヘッドラインやセールスレターでも、YouYourという語を多く使うように、とはっきり言っています。総称人称ではない、今これを読んでいる「あなた」に向かって、語りかけなさい、と。

でも、ここで問題があります。
「あなた」という言葉は日本語として収まりの良い言葉ではないんです。
たとえば、

私たちはあなたにAAAというご提案をいたします。
あなたはこれまで~のようなときに、不満をお感じではありませんでしたか?
私たちは研究開発の結果、__という問題を解決いたしました。
あなたもきっとAAAには満足していただけると思います。

こんなダイレクトメールをもらうと、日本人的な感覚だと、ちょっと違和感を覚えたりしませんか?(あるいは、きっとこれは外資系だな、と思う)

そもそも私たちは日常で「あなた」という呼びかけを、対面する相手にあまりしません。「あなた」という呼びかけを使う人というと、真っ先に思い出すのがマスオさんを呼ぶサザエさんです。でも、夫に対してこんな呼びかけをする女性も、今の日本ではむしろ少数派ではないでしょうか。

二人称とは、一人称である「私」が呼びかける相手です。
日本語では一人称が「わたし」「ぼく」「おれ」「わたくし」「拙者」「吾輩」「おいら」「うち」…などと目まぐるしく変わるのに合わせて
「あなた」「君」「あんた」…と変わっていきます。それだけでなく、特に日本では「お父さん」「先生」「社長」…というように、話し手との関係性を反映した呼びかけが、日常的によく使われます。

そもそも「あなた」を使うと、親しみとはちがうニュアンスが現れてくる、とは思いませんか?
「あなたの問題点はね…」あとに続くのは、お説教、はたまた別れ話?

ですから、セールスレターを訳すときは「あなた」の代わりに「__様」という呼びかけを当てはめました。
英語だと、Mr.~というよそよそしい、それこそビジネスライクな響きがあって、決して好まれないこの呼びかけが、それでも日本語では、「ほかの誰でもない、__さんに話しかけているんですよ」
というニュアンスを伝えることができて、一番近いかな、と思ったのです。

ジェイさんの文章の中で「あなた」と訳されている箇所が目についたら、どうか今、この文章を読んでいらっしゃる「あなた」に、直接ジェイさんが話しかけている、と思ってほしいのです。それが伝わるよう、私たちもできるだけ、語りかけるような文体を心掛けています。

そうして、セールスレターなどのテキストの文中で、「__様」とあったら、今度は「あなた」が、話しかける相手の顔を思い浮かべながら、読んでみてほしいのです。  (ハットリサトコ)


hattori01ハットリサトコ:ShimaFuji IEM 翻訳チームに所属しております。
社会学系読み物や、フィクションの下訳、Webライターなど、さまざまな仕事を経て、ジェイ・エイブラハムの『限界はあなたの頭の中にしかない』と巡り合い、従来のビジネス書にはなかった深い思想性に強い共感を覚え、現代の社会でもっと多くの人に読んでもらいたい! と強く思うようになりました。難解なジェイさんの思想と取っ組み合いをしながら、チームのみなさんと、あーでもない、こーでもない、と頭をひねる毎日です。
ジェイさんを始め、さまざまな方の翻訳を通して、発見したことや気づいたことなど、お伝えしていけたらな、と思っています

人は城、人は石垣、人は堀

ジェイ・エイブラハム氏の哲学を深く考えるとき
私の頭に浮かんでくる1人の人物がいます。
それは、500年前の日本を生きた
名高い戦略家 武田信玄です。

戦国時代の日本は、それはそれは殺伐としており
親兄弟間の殺し合いすら、日常茶飯事だったとか。
あの織田信長が実の弟を討ったことは有名な話ですね。

信玄も父を追放し家督を継いではいるものの
毎年のように多額の仕送りをしていたそうです。
信玄はまた、独裁者ではなく
家臣との戦略会議をよく開いたといいます。
また、当時としては非常に珍しく
身分によらず実力のある者を進んで招き入れる
そんな 器の大きい人物でもあったとか。

そんな信玄の、数ある名言の中にこんなものがあります。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは見方、仇は敵なり」
信玄が家臣をとても大切にしていたことが伺える一言です。

ところで、
「なぜジェイ・エイブラハムの翻訳裏話で武田信玄なの?」と
皆さんうすうす疑問に感じていることでしょう。
いよいよ本題です。

“Team”

この一言をどう訳すか。
これに、私たちは迷ったことがあります。

「え?普通に『チーム』じゃダメなの?!」
と、多くの方が疑問に思われることでしょう。
ときにはこんな、何の専門用語でもない一言を訳すのに
私たちは多いに悩むことがあります。

それは、スタートアップを考えている人たちに向けた
動画の字幕を訳していたときのことでした。
ジェイさんは、スタートアップをする人が今後雇う人材を指して
“your team”と言ったのでした。

もちろん「チーム」という言葉は日本語でも普通に使われているけれど…
一般的に日本人が「チーム」という言葉を聞いて
頭に思い描くのは、ビジネスではなくスポーツなのでは?

そう、スラムダンク、キャプテン翼、はたまたアタックNo.1のような…
とにかくその言葉には、友情、涙、熱血、団結といったイメージが
付いて回るものではないでしょうか。

「では英語のteamは違うの?」というと
そんなことはありません。
ただし、大企業、中小企業に関わらず
また上司や部下が入り混じっているかどうかに関わらず
一緒に仕事をする仲間を“team”と呼ぶのは
ごくごく普通のことと言えます。

でも日本では違うのではないか、と私たちはふと思ったのでした。

文字が何秒かのうちに現れて消えてしまう字幕の場合には
言葉のイメージが非常に重要です。
ここで「チーム」という言葉を使って、
スラムダンクを連想させてしまって良いのか?!

ではどうすれば?
いくつかの提案がありました。
「スタッフ」「従業員」などの訳を当てようかと。
もちろんそれでも意味が通る訳にすることはできました。

が…

結局のところ私たちは、敢えて「チーム」という訳を選びました。
ジェイさんがそのとき伝えたかったのは
まさにスポーツのチームに関して私たちが連想するような
「心のつながり」だと思ったからです。

ジェイさんの卓越論からは
「人を敬って、大切にすればするほど、自分の得るものは大きくなる」という
メッセージが伝わってきます。

なんだか私は、先ほどの信玄の名言を思い出すのです。

日本企業の間でも「チーム」という言葉と考えが
もっと浸透していくといいな~と
そんな願いを込めて訳を選んだ、島藤翻訳チームでありました。

(a_washiyama)


a.washiyama

a_washiyama:
ShimaFuji IEM 翻訳チームのメンバーです。
翻訳家としてまだまだ勉強中ですが、ジェイさんのお考えを分かり易く、正確にお伝えできるよう、邁進して参ります!

意外なところで孟子と出会う

Jayさんの文章を訳していて、
You shouldn’t steal from yourself.
という文章に出くわしました。

直訳すれば、「あなたはあなた自身から盗むべきではない」ということですが、なんとなくよくわからない言葉です。前後のつながりもよくわからず、意味が取れません。

こんなふうに周りから浮いている言葉というのは、たいてい引用句の一節にちがいない、と思って検索してみました。
ビンゴ!です。
それも、なんと孟子だったのです。
有名な「惻隠の情」の箇所です。

惻隠(やさしさ)、羞悪(悪を憎む心)、辞譲(謙譲の心)、
是非の心(何が正しくて何が悪いかを判断する心)が生じぬ者は人とはいえない。
人にこの四端が存するのは、人に手足があるが如きものである。
この四端はそもそも己に備わっている。
それにも関わらず、自らそれを見失っているのは自らを害する者であると言える。
(”Readings in Classical Chinese Philosophy”からの筆者訳)

最後の
one is unable to be virtuous is to steal from oneself.
これが “steal from yourself” の原意だったのです!

つまり、自分に本来備わっているものを、自分で盗んで(無くして)はならない、ということだったんですね。以前もJayさんの文章の中に「孫子の兵法」が出てきたことがありましたが、うーん、Jayさんの博識、恐るべし、というところ。

でも、こんな風に疑問が氷解する瞬間は、とても楽しいものですね!

この孟子の一節も出てくる文章の翻訳は、今後「卓越論上級編」として、学習会やセミナーなどで皆様のお手元に届くかと思います。
そんなとき、ああ、こんな思いをしながら訳していたんだな、と(ちょっとだけ)思い出していただければ幸いです。

(ハットリサトコ)


hattori01ハットリサトコ: ShimaFuji IEM 翻訳チームに所属しております。
ジェイ・エイブラハムの『限界はあなたの頭の中にしかない』と巡り合い、
従来のビジネス書にはなかった深い思想性に強い共感を覚え、
現代の社会でもっと多くの人に読んでもらいたい! と強く思うようになりました。
難解なジェイさんの思想と取っ組み合いをしながら、
チームのみなさんと、あーでもない、こーでもない、と頭をひねる毎日です。

 

第1回メンタークラブ関西支部勉強会の報告

1月6日大阪で開かれた第1回メンタークラブ関西支部勉強会「質問の仕方」に、翻訳チームのスタッフとして参加させていただきました。

他者紹介のワークとは?

会員のみなさんが3つのテーブルに分かれて着席したあと、最初に行ったのは
①他者紹介のワークでした。

私たちは自分がどう外から見えているかわかりません。
ほぼ初対面のメンバーに、自分を紹介してもらうことを通して、自分がどのように他者の目に映っているかを知り、自分では気づかずにいた「自分の資産」を発見するきっかけとなるワークです。
また紹介する人にとっては、他者をよく見、その人の好さや個性を見つけ出し、それを言葉にする、というワークでもあります。

第一印象の重要性はよく言われることですが、実のところ私たちは初対面の人から驚くほど多くの情報を受け取っています。
ところがその情報の中身を、本人が知る機会はほとんどありません。
反対に受け取っている側も、それをはっきり言語化して意識にとどめることをしないため、多くの場合あいまいなまま、以降のコミュニケーションを規定するものになっていきます。

それを言語化し、しかもネガティブな言葉ではなく、ポジティブな言葉でそれを表現するというワークは、紹介する側も、される側も、得るところの多いものだと思います。

各テーブルとも、和気藹々とした雰囲気の中で、活発な話し合いがなされていました。

質問を掘り下げる

そのあとはいよいよ本題の
②質問を掘り下げるワークです。

壁にぶつかったり、行き詰ったりしたときに、私たちに必要なのは、優れた他者の視点であり、知恵や経験です。ところが適格なアドバイス、実践につながるアドバイスをもらおうとしても、適格な質問をしないでいると、どれほど優れた人であっても一般論になってしまいます。

私たちは、これまで受けて来た教育でも、職場環境の中でも、「適格な質問をする」方法を習ってきませんでした。
そのため、本当に聞かなければならない要点を、自分でも見つけることができず、漠然としたことを質問してしまったり、本質とは無関係なことに目を奪われて、要点を外したことを聞いてしまったりします。
ですからメンタークラブでは、今回「質問をする」ということに的を絞って、話し合いを行うことにしたのです。

今回特に意識したのは、「英語的思考で考える」ということでした。
動詞が主語の次に来る英語とはことなり、動詞が最後に来る日本語の性質から、私たち日本人の話は、
「~がどうなって、こうなって、ああだからこうなんだ」という形になりがちで、
「私がどうする」という形になりにくい、という問題があります。

“I think …, because….”
(私は…だと思う、というのも、これがこうしてこうなっているからだ)

という形式で話すことによって、その人が状況をいかに把握し、それに対してどうしていこうと考えているかが明確になっていきます。

日本人の質問にありがちな、状況をだらだら説明したあと、だからどうしたらいいですか、という、その人がこれから何をどうしたいのかも明確にならない質問から脱却するための最善の方法が、「英語的思考での質問の組立」ではないかと考えたのです。

集まったメンバーが抱いている質問を
「なぜそれが問題なのか」
「なぜそう思うのか」
「なぜ…」
「なぜ…」
と繰り返すことを通じて、問題を深めていく。
そうやって、その人が本当に聞きたい問題、逢着している問題をつかみ出していく、というワークでした。

2人1組で、途中パートナーを替えながらそれぞれの問題を話し合ったあと、最後にひとりずつ、メンバーの方にそれを発表していただきました。それに対して島藤代表からのコメント、それから「英語に翻訳できるかどうか」(英語的思考になっているかどうか)の観点から私がコメントを述べさせていただきました。

まだまだ話は尽きなかったのですが、閉館時間となり、次回のスケジュールとこのような学習会を全国に広げて行こう、またメンバーの方がぜひシェアしたい、と思われるお友だちにもお誘いいただくことを確認して、終了となりました。

第1回勉強会を終えて

今回の勉強会は、メンバーの方々の温かい雰囲気の中で、活発な討論がなされていくのを、興味深く拝見しておりました。遠くからご参加くださった方からも、終了後に「来た甲斐がありました」とのお言葉をいただき、うれしい気持ちでいっぱいになりました。

私たちがこれまでいた環境では、「自分の本当の意見を言わない」ことが良しとされてきました。つまり、自分の主観は全体の調和を乱すもの、という、陰に陽に感じられる圧力の中で、自分の考えではなく周囲が求める意見を言うことが良いこととされてきたのです。
「他人と同じ」であれば無難である、「他人と同じ」なら集団の中で孤立しないで済む。

でも、そうすることが、自分にとって苦しいことは、実は誰もが気づいてきたはずです。
けれども、どうしたら良いか、どうしたら自分の本当の意見を、チームワークを乱さず、なおかつ自分も全体も良くする方向で主張したら良いのか、そのモデルを示してくれる人が身近にはいませんでした。だから、自分の意見を表明することどころか、自分の頭の中だけでも確立することすら、私たちの多くは苦手なのだと思います。

まず、第一歩として、そんな息苦しさを取り除ける場、自分が本当に思っていることを言える場を、皆さんと共に作っていけたらな、と思います。

「勉強会」と名がついていますが、誰かが教え、誰かが教えられる、という関係性ではありません。相互に教え合い、学び合える、そんなフラットな場なので、ぜひ多くの方々のご参加をお願いしたいと思っています。

メンタークラブ学習会には、メンタークラブ、または戦略的思考学会のメンバーであればご参加いただけます。
ぜひ奮ってのご参加、お待ちしております。

ジェイ・エイブラハム メンタークラブとは
戦略的思考学会とは


服部聡子(ShimaFuji IEM 翻訳チームリーダー)
出産・退職後、在宅で働ける資格を身につけるために翻訳を学び始める。
約5年フィクション/ノンフィクションの下訳、ウェブ・ライターを経て、
『限界はあなたの頭の中にしかない』に巡り合い、深い共感を覚え、弊社に。

小さな会社が勝つためのマーケティング主導型もの作り

アメリカでマーケティングが進んできた理由は、人種が多種多様で様々な価値観を持つ人が集まる国であり、「阿吽の呼吸」や、そこはかとないイメージ戦略では、商品やサービスの内容が伝わらなかったためでしょう。

さらには、国土が広いので、ダイレクトマーケティングである通販が非常に早くから進んでいる点も、マーケティングが発展した大きな理由でもあります。

日本では、マーケティングと言えば、さすがに市場調査や、宣伝のことを指す人は少なくなりましたが、それでもまだまだ、中小企業では馴染みの薄い分野ではあります。オンラインで、情報弱者を釣り上げる手法を「マーケティング」と称して来た一部の人が居た事実も、そのイメージを損ねる原因になりました。

ですので、私は、人によって捉え方の幅がある「マーケティング」という語句を、なるべく使わないように執筆することにしていますが、実際は、マーケティングと経営は切っても切り離せません。ちなみに、英語ではSales=販売なので、日本語の「営業」にあたる言葉がありません。誤解を承知でかなり大雑把にくくると、本来の御用聞きの意味での「営業」は、そのまま英語的なマーケティングと言えるのではないでしょうか。ですので、私は、マーケティングと言いたいところを、ライティングの際に「営業戦略」などと書き換えることもあります。

『限界はあなたの頭の中にしかない』執筆の際に、ジェイ・エイブラハムに「ジェイにとってのマーケティングとは何か、定義してほしい」と聞いた際、しばらく考えさせてほしいと数日経ってから、

私にとってのマーケティングとは、顧客がより良い人生を歩むために導くこと。守り育てることに他ならない

との、非常に深遠な答えが返ってきました。この言葉は、単に「顧客を教育する」という辞書的な訳では誤解を招きます。彼のこの定義の前提となる、「ビジネスとは道である」という理念の上に立ち、理解を進めなければなりません。ジェイは、ビジネスという営みを通して、自らをより高みに磨き上げることという信念のもとに、マーケティングを定義しているからです。

ただ、誰しも自分のことはなかなか客観的に見えないものです。私自身も自らの戦略は、各方面のプロにアドバイスを受け、常に見直しをかけ続けています。ほんの小さな誤差が、1年後には取り返しのつかない「ズレ」になる場合もあるからです。目先の数十万円は確かに惜しいかもしれませんが、それをケチってビジネスがダメになることの方が、もっと怖いと思うからです。経営者は、従業員や取引先などチーム全員の人生を守る義務があります。

ところが、販売力や製品力があり、人脈と力技でそれなりの成功を勝ち取られて来た経営者の方々は、今はなんとか食べていけるだけに、戦略見直しを痛感している人は少ないものです。

ある地元の名士がおっしゃいました。
「もっと、とことん落ちるところまで落ちないと、気づかないんちゃうかな」と。

その言葉を裏付けるように、SONYから分離して以降赤字で、他社との統合構想が破綻に終わったVAIOは、IDCジャパン2015年国内パソコン出荷台数によると、他社が軒並み前年費マイナスになる中、前年比384.7%と躍進しました。国内シェアがわずか1.8%であるにも関わらず、です。

 

 

 

 

 

 

http://www.idcjapan.co.jp/Press/Current/20160218Apr.html

日経新聞の取材によると、VAIOは、

 薄型・軽量で高性能を売り物にした10万~20万円程度のノートパソコンが軸で、市場で売れ筋の数万円の機種は扱わない。

(7月26日)

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ26I6Z_W6A720C1TI1000/

と、マスマーケットを敢えて避け、技術者を営業に出向かせるなど、マーケティング主導のものづくりに戦略変更することで黒字転換。今期のさらなる増益を見込むとのことです。

つまり、経営陣こそが、マーケティングを深く理解する必要がありますし、「もの作りニッポン」にその知恵が日本式営業戦略に融合され、アレンジされていくことで、日本は、世界でまだまだ勝ち抜いていけると考えています。

具体的に小資本の企業が、ニッチ戦略を取り入れるための手順を、メンタークラブ8月号で音声教材にしました。

メンタークラブでは、全米5大ビジネスコーチのジェイ・エイブラハムを師として、その教えを学びつつ、日本人にわかりやすくアレンジしたマーケティング解説や、スタッフの経営者マインド育成に効果の上がる教材をオンラインでお届けしつつ、全国支部での勉強会を開催しています。

 

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島藤真澄 (ShimaFuji IEM代表)

フォーブス誌選出全米5大ビジネスコーチ,ジェイ・エイブラハムの東アジアディレクター(交渉代理人)。様々な案件のプロデュースや海外とのビジネスマネジメントを行う。

ジェイの『限界はあなたの頭の中にしかない』PHP研究所を企画・翻訳。

 

その他の島藤コラム:

日本で個人コンサルがエセ扱いされる理由

日清CM中止に思うこと?SNS時代の企業広告とマーケティング

 

日本で個人コンサルがエセ扱いされる所以

ただでさえ、ノータイに腕組み自撮り画像の自称コンサルタント業への嫌悪感Maxだったところに、タレント・コンサルタントの学歴詐称が発覚し、ますます「コンサルタント業」への風当たりが厳しいです。

そもそもジェイ・エイブラハムも、自身のことをマーケターとも、コンサルタントとも示すことはなかったのですが、そのように日本では紹介されてきた事実があり、「今更コンサルタントのエージェントですか?」と小馬鹿にされることも稀ではありません。

私自身はマネジメント業として、そういう本質と実際のギャップがあるところにこそ、ビジネスチャンスを感じる次第ですが、なかなか負のイメージから出発するのは、まっさらなキャンパスに絵を描くよりは厳しいことには違いありません。なぜゆえにこれほどまで、コンサルタントが嫌われるのか、日々、深く考えざるをえないわけですが、ことさら日本においては、「コンサルタント=口先だけの詐欺まがい」との扱いが否めない理由を、少し整理しておきたいと思います。

間違いのない一つの事実として、コンサル会社や自称コンサルが、何一つ、ビジネスを加速させる結果を出せてなかったというまっこと憤慨せざるをえない現実があります。

ずいぶん以前にブログで紹介した書籍に、米国元大手コンサル会社出身のカレン・フェランが著した『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です』がありますが、

515X2+oHCtL._SX350_BO1,204,203,200_私自身、コンサル会社のやり方が猛烈に嫌いです。フレームワークを見るだけで、うんざりします。ただ、引き受ける企業の側にも問題があり、それっぽい資料がないと、稟議が通せないという判断基準のお粗末な側にも責任があるはずです。

研修にせよ、結果にフォーカスするのではなく、社内稟議の通りやすい企画書が判断材料となる。プラス担当者買収。アジア諸国を小馬鹿にしているものの、精神的途上国なのです、この国はまだ。

加えて、コンサルタントは所詮、外注に過ぎず、結果(利益アップ)への責任なんぞ何一つなく、企業が本当に頼りたい実業家個人へは、「顧問」や「相談役」という形で、囲い込みをするのが慣習であることもまた、一つの大きな理由でしょう。

さらに、アジア諸国の台頭に比し、自信喪失極まりない日本社会全体に、青い目の超高額アドバイザーは、「黒船」同様の脅威に映ることも、事実でしょう。それでもなお、私は、私の「良い」と信じるものを、日本へ正しく紹介することを辞める気はありません。

「当たり前」のことが「当たり前にできる」のなら、日本がこれほど、沈むことはなかったはずです。なぜ、シャープや東芝など一流企業が、情けない結果に終わらねばならなかったのか。

「そんなもの必要ないんだ。日本は成熟している」と言えるなら、なぜ国土が中国資本に買収されまくらないとならないのか、きっちり説明していただきたいと、いつも思います。

私は、すべての税理士や中小企業診断士、研修会社、ホームページ業者、DTP業者、Webデザイナー、商工会議所、などなど、企業の利益支援に関わる人々が、実業とは何ぞや、利益をあげるとはどういうことか、そのアイデア、仕組み、資金繰り、業務提携の方法などを深く理解しているべきだとの信念を持っている。

その知識の底上げこそが、日本全体をライズアップするための唯一の方法だと信じている。

確かに、エセコンサルなぞに、会社は救えない。だが、経営者が判断すらできない末期状態である今の日本で、せめて何が正しい道なのかを教えてくれる指針は必要だ。大義名分など食えるようになった後で良いと言われるだろうが、いや、大義名分がなければ、やり続けることなどできやしません。すべて完璧で安易に見える道になど、果実はないのです。

ただ、その大義名分は、本人の直感でしか判断できず、周りには、ただの「キチガイ」に見える道こそが、イノベーションであることは間違ありません。

いつの時代も、聖なるアホが世界を救うのです。

 

 

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島藤真澄 (ShimaFuji IEM代表)

フォーブス誌選出全米5大ビジネスコーチ,ジェイ・エイブラハムの東アジアディレクター(交渉代理人)。様々な案件のプロデュースや海外とのビジネスマネジメントを行う。

ジェイの『限界はあなたの頭の中にしかない』PHP研究所を企画・翻訳。

 

ネガティブイメージ・キャンペーン

最近、大手カジュアル衣料品チェーン店で買い物をした。
いつものとおり会計をしていると、レジの店員が最後に
「ご意見をお聞かせください」というようなことを言いながら、
アンケートはがきを商品の袋に入れた。
 
その申し訳なさそうな顔が何とも印象的だった。
他の店舗でも同様だった。最後に必ず一言添えながら、アンケートが同封された。
そのとき私が思い出したのは2つ。
1つはそのチェーン店の売上高が大きく減ったという最近のニュース。
 
それからもう1つは、昔勤めていた会社で、破たんした山一證券出身の人が言っていた
「アンケートって会社が行き詰まるとやるんですよね」という言葉だった。
 
絶好調のときのその衣料品チェーン店のレジの店員は、こんな顔はしていなかった。
 
勢いがあって、さすが大手と思わせる接客ぶりであった。
今でももちろん、みな感じが良いとは思うのだが
(競合の某海外アパレルの接客態度には、本当にあきれるときがある)、
はがきを入れるときの店員さんには、何だかみな一様に負のオーラが漂っているような気がした。
 
ビジネスは結局イメージに尽きると思う。
とくにこういった小売業であればなおさらであろう。
「売上が前年比大幅減」で
「店員がはがきを申し訳なさそうに入れる」店の服は、
たとえそれがまったく同じでも、
「売上が絶好調」で「店員の威勢が良い」店の服とは違うような気がするのである。
 
顧客の声が聞きたいのなら、他にもっと方法があるはずである。
単純に、すべてのレジで一言添えてはがきを挟み込むコスト自体が膨大なことに加えて、
店員も顧客も、みんなの気持ちが盛り下がるマイナス効果絶大のキャンペーンである。
 
ちなみにその山一證券出身の同僚が言っていたのは、山一がつぶれる直前の時期は、
やたら社内アンケートのオンパレードであったという話であった。
 
そのとき私(とその同僚)が勤めていた会社も業績が低迷し、社内調査を繰り返していたので、
彼の一言は、周りの空気を凍らせるのに十分な説得力のあるものであった。
 
あなたの会社はどうだろうか。
社内であれ社外であれ、アンケートをしているだろうか。
 
もちろんそれが効果的な場合もあるだろう。
貴重な情報やリストが手に入るかもしれない。
しかしそれは、そのコストと効果と影響を十分見積もった上でやっているものだろうか。
 
ちょっときつい言い方をするならば、自分で考えることをあきらめた末に、
「我々には顧客や社員の声が分かりません」
と丸投げしてはいないだろうか。
 
私はちなみにこの衣料品チェーン店を応援したいと思っている。
日本を背負って立つ存在として、海外でもいっそう頑張ってほしいと思っている。
 
だからこそぜひ彼らにはお願いしたい。
同じ膨大なコストをかけて顧客の意見を収集しようとするのなら、
当然ながらはがきをそのまま捨ててしまった私でも思わず返信してしまうような、
何か秘策を考えてほしいのである。
 


(新海祥子)