IEM RADIO 5: 自己犠牲精神を無くし、お金を貯めこむのではなく、流れを大事にしましょう…

IEM RADIO 3: 会社の理念を立て直すことは成功へのカギ?/子供の教育はまず大人からスタート…

IEM RADIO 2: 到来するグローバル社会で生きて行くには?重視されるべきことは何か?まずは、自分を知ること…

ほどよい噛みごたえを目指して

するめのおいしさの一要素が噛みごたえであるように、翻訳にも噛みごたえが大切だと思っています。書き手の想いがこめられた原文を台無しにしないように、文章に合わせた、かたすぎずやわらかすぎない言葉を選ぶように心がけています。

たとえば、lifeという単語が出てきたとしましょう。「人生」「暮らし」「生活」などと訳されることが多い単語です。ある人の生活について書かれている場面で、このlifeに「人生」という言葉をあててしまったら、ちょっとカタすぎる大げさな文章になってしまいます。逆に、ある人の人生や信念ついて書かれた壮大な文章なのに、「暮らし」という言葉をあててしまったら、やわらかすぎて読みごたえがなくなってしまいます。

では、friendlyという単語なら、どんな噛みごたえにするのがよいでしょうか。この単語は、人間、お店、雰囲気などさまざまな名詞につく形容詞です。論文などのカタい文章や一般向けの文章なら、「好意的な」「親しみやすい」「親切な」、カジュアルでくだけた文章なら、「フレンドリーな」といったところでしょうか。コンピューター関連なら、「(ユーザー)フレンドリー」という言葉がちょうどよいでしょう。

advantageという言葉はどうでしょうか。ビジネスに関する文章なら、「(競争上の)優位性」「(自社の)強み」「長所」などがちょうどよいところでしょうか。スポーツの世界なら、「アドバンテージ」という言葉がよくつかわれています。私はサッカーが好きなのですが、サッカー用語として「アドバンテージ」という言葉があります。試合中継では、「Aチームが優位だと判断しました」ではなく「Aチームのアドバンテージを取りました」とカタカナ語で実況してもらったほうが、サッカーらしい試合の雰囲気を壊さずに楽しめると感じています。

おカタい英語の文章には堅い日本語を、やわらかい英語の文章にはやわらかい日本語をあて、言葉の意味も雰囲気も的確に伝えることを念頭に置いて、日々翻訳をしています。


(渡部真紀子)
ShimaFuji IEM 翻訳チームの一員。
アメリカの大学でビジネスを学んだ後、帰国して小売り業界で働くが、国際的な仕事への想いが募り、翻訳の道へ。マーケティング関連の翻訳を経て、弊社翻訳チームに加わる。

キャッチボールをするように

Speak と Talk の違いは何かと訊かれたら、どう答えるのがいいと思いますか?

中学生であっても、まじめに授業を受けている子なら答えられる質問かもしれません。
どちらも「言葉を発する」という意味の動詞でありながら、はっきりと使い分けられている単語です。

ジェイさんは広告やコピーの重要性を語る際に、次のようにおっしゃることがよくあります。
「あなたがつくった広告やコピーを見る人が大勢いるとしても、あなたはそのひとりひとりに話をしていることを覚えておいてください」
ここでジェイさんが使った「話をする」は、Speak と Talk のどちらだと思いますか?

Speak はフォーマルで、Talk はカジュアルだという説明をよく目にします。確かにそれは事実ですが、私個人的には、それより大きな違いが別にあるように感じています。
ある文献では次のように説明しています。
「Speak は一般的に、言葉を発する人だけにフォーカスした単語である一方、Talk は言葉を発する人と、その聴き手の両方にフォーカスした単語である」

ジェイさんは、広告や販促は一方的であってはならないというお考えで、そのメッセージを受け取る人と、いわば「会話」をしなければならない、と強調しておられます。
先ほどの質問の答えは皆さん、もうおわかりですね?

私は今のところ、コピーを書いたこともプロモーションを企画したこともありません。しかし、言葉をあつかうという仕事であることには違いなく、ジェイさんの語られることに少なからずドキッとさせられている自分がいます。
通訳の場合には、聴き手が目の前にいるかもしれませんが、翻訳の場合にはそのようなことはまずありません。自分が翻訳したものが読み手に届くのは、明日かもしれないし、1か月後かもしれないし、10年後かもしれません。
それでしばしば、読み手を意識して訳す、というのが難しく感じることもあります。「相手はどう読むかな」とか「何を感じるだろうか」ということを考えながら訳すというよりは、とにかく「意味がわかるかどうか」だけに集中してしまうことがあるのです。
広告やコピーに関しても、販売する側が言いたいことだけを一方的に伝えて、受け取る側の気持ちを無視するようなものになってはいけない、という意味で、ジェイさんはTalkという言葉をあえてつかっておられるのだと思います。それは相手の存在を確認しないままに投球するようなものではなく、キャッチボールであるべきだ、というメッセージが伝わってきます。

「翻訳をする」「コピーを書く」、そのほか「言葉を発する」という行為がなんと呼ばれてどんな目的で行われるにせよ、それを受ける相手を最大限に意識することの大切さを、ジェイさんに教わっているように感じています。
自分が訳す言葉ひとつひとつ、そして発する言葉ひとことひとことを、大切に考えたいものです。

(a_washiyama)


a.washiyama

a_washiyama:
ShimaFuji IEM 翻訳チームのメンバーです。
翻訳家としてまだまだ勉強中ですが、ジェイさんのお考えを分かり易く、正確にお伝えできるよう、邁進して参ります!

言葉の橋渡し

翻訳とは、言葉の橋渡しをすることだと思っています。英語を日本語にただ置き換えるのではなく、原文の意味を正確に把握して、読み手が理解できる言葉で伝えるということです。

ある日、ホテル業界で売上や利益を伸ばすための方法について書かれている文章をチェックしていたときのことでした。

長旅で疲れている家族が到着したら、親がチェックイン手続きをしている間に、「子どもにはケーキなどを与える」と書かれていました。到着していきなりケーキを出すホテル??「ケーキなど」の「など」は何が含まれているのだろう???ビジネスの手法や戦略とうまく結びつきません。

原文は、「provide refreshments」でした。

幸いなことに、このときはこの原文の意味をすぐに理解することができました。私も経験したことがあったからです。

英語圏での経験は、アメリカの大学時代のことでした。大学のサークルやイベントのチラシで、このrefreshments (will be served)という言葉をよく見かけました。たとえば、新学期が始まり、サークルのチラシに「来ていただければrefreshmentsがありますよ」と書かれていたとします。この場合、ソフトドリンクが数種類とクッキーが数種類といったところでしょうか。あるいは、夕方~夜の時間帯ならピザが出されることもありました。

日本では、旅館やホテルに到着したあと、部屋に案内される前に「お茶とスイーツのおもてなし」を受けたことがありました。予約サイトやツアーのチラシには、「ウェルカムドリンク提供」と書かれていることもあります。

辞書を見てみると、「軽食」や「飲み物や食べ物」という訳語がありました。この言葉をそのまま挿入しても、たしかに間違いではありません。でも、このホテルの例で筆者が伝えたいことは、refreshmentsを出すことによって、この家族のホテル滞在経験をさらに良いものにしましょう、疲れを和らげてもらって気持ちよく滞在してもらいましょうということでした。さらには、ホテルを気に入ってもらい、リピーターになってもらうこと、それが売上増加につながるということも書かれていました。ですから、もう少し何か加えなければこのrefreshmentsの真意は伝わらないと思いました。

このrefreshmentsという単語に含まれているrefresh(リフレッシュ)という言葉が表わすように、気分をリフレッシュするようなものという意味も込めて、私は「気分を持ち直せるようにお菓子や軽食などを与えましょう」と訳しました。

もちろん、これがただ1つの正解ではありませんし、私以外の人が訳せばまた違った言葉づかいになるでしょう。ただ言葉の橋渡し役として、どんな場面でも誠心誠意務めを果たすことが、書き手に対しても読み手に対しても、最低限の礼儀だと思うのです。


(渡部真紀子)
ShimaFuji IEM 翻訳チームの一員。
アメリカの大学でビジネスを学んだ後、帰国して小売り業界で働くが、国際的な仕事への想いが募り、翻訳の道へ。マーケティング関連の翻訳を経て、弊社翻訳チームに加わる。

英語の思いやり、日本語の思いやり

ダイレクトメールが来たと仮定してください。
ある品物が入荷した、というお知らせの後、末尾の文章が以下のようなものだったらどうでしょうか。

===

もし、お気に召さない場合は、ご返品も承ります。でも、(商品名)をご覧になれば、きっとお気に召すことを確信しております。前回に続けて今回もこのチャンスを逃せばきっと後悔なさるでしょう。もしも、(商品名)を手にできる○人のうちの一人になりたければ、すぐご連絡ください。

===

なんとなく、失礼なダイレクトメールだな、と思いませんか?
特に違和感を覚えるのが「~を手にできる○人のうちの一人になりたければ」という箇所だと思います。

実はこの文章、原文はジェイさんのとある本の一節で、先に挙げたのが先行訳なのです。

念のために申し添えておきますが、これは文法的に見ると、決して間違った訳ではありません。
原文では

If you’d like to be one of the (number) people who gets one of these ___

確かにその通りなのです。

ただ、ここには英語と日本語の間の「思いやりの表し方」の違いが、端的に表れています。

昔々の話なのですが、高校時代、私はアメリカ人の留学生の男の子と親しくなりました。親しいといっても、まあかわいらしいもので、一緒に学校帰りに、マクドナルドに寄ってマックシェイクをすするとか、日曜日に映画を見たり動物園に行ったりする、ぐらいのものですが。

その彼が何かあるたびに、
「君はぼくと~に行きたい?」
「君はぼくに~してほしい?」
と英語で聞いてくるのです。
当時、まだ英語の知識もさほどなかった私は、それを上記のように、直訳して聞いて、そのたびにイエス、イエスと答えながら、何でいちいちこんなことを聞くんだろう、「一緒に行かない?」でいいじゃないか、「このぼくと~に行きたい?」だなんて、コイツは自分をアイドルか何かだと思ってるんだろうか、と、微妙におもしろくない気持ちでいたのでした。

やがて数年が過ぎ、英語の知識も増えていく中で、この表現が英語では非常に一般的であること、同時に英語圏の人が「相手の意思を大切にする」ということを学んだのです。

日本人が「一緒に行こう!」とごく当たり前のように誘うのに対し、英語では「君は~したい?」とごく当たり前のように相手の意思を確認するのです。

これは、さまざまな局面で現れます。
何も聞かず、黙って手を差し伸べるのが日本的な思いやり。
「あなたには助けが必要ですか?」と相手の意思を問うて、必要です、という意思表示があれば、手を差し伸べるのが、英語圏の思いやり。

苦しい、つらい、困っている……そんなとき、「助けが必要ですか」と聞かれると、日本人は屈辱を感じることがあるかもしれません。でも、それは日本人的感覚。個と個が確立している英語圏にあっては、勝手に手を差し伸べるほうが、相手を尊重しないことになる。

もちろんそれが当てはまらない場面もあるのですが、基本的な表現レベルでは、間違いなくそれは言えるのです。

社会のあり方や個々人のあり方に違いはあっても、英語圏であろうと日本であろうと、人を思いやる気持ちに変わりはありません。ただ、社会や個人のあり方に規定されて、表現がちょっとちがうだけなのです。

そう考えていくと「~を手にできる○人のうちの一人になりたければ」というのも、相手の意思を確認している表現であって、決して失礼なものではないのです。

でも、私たちにとって、その表現はなじみがありません。
なじみがない、ということは、真意が伝わりにくいということでもあります。
文法的にはまちがっていなくても、真意が伝わらないという意味では、やはり一種の誤訳とは言えないでしょうか。

どうしたものか、と考えたのですが、私はその部分をこんな風に訳してみました。

「○○様には__を手にできる幸運なお客様になっていただきたいと願っておりますので、ぜひ早急にご連絡くださいませ。」

どうでしょうか。
少し、意訳しすぎ、とお考えでしょうか。


ハットリサトコ
ShimaFuji IEM 翻訳チームの一員です。

神は細部に宿る、という言葉は、まさに翻訳のためにある、と信じ、言葉ひとつひとつと格闘する毎日です。残念ながら、木を見て森を見ず、どころか、葉っぱ1枚の葉脈に目を奪われて、森の存在を忘れることもしばしば。

「プロセス」としての仕事

 

突然ですが皆さんは、自動車保険の対応に満足しておられますか?

 

と言ってもこれは、ある特定の保険会社を売り込むような話ではありませんのでご安心を。

あくまでジェイ・エイブラハム翻訳裏話です。

 

私の夫が昨年小さな交通事故に巻き込まれたとき、私は初めて保険会社とまともにやりとりをしました。

それまで知らなかったのですが(そしてどの保険会社でも同じかどうかはわからないのですが)事故に遭うと、「怪我に関する担当者」「自動車の損傷に関する担当者」など複数の担当者が付くことになり、私も3人の担当さんと連絡を取ることになりました。

最初になんとなく「私は○○担当です」という紹介を受けたような気はするものの、気が動転しているし、保険の仕組みもよくわからないし、私はしばしばそれぞれの担当さんに、関係のないことを質問したりしたようでした。

そのたびに「いえ、それは私の担当ではありませんので…」と、やや冷淡な口調で言われちょっと腹を立てたり、恐縮したりしたものです。

 

そんなときにジェイさんの動画を訳していて、

Process

という言葉が出てきました。

過去にも色々な場面で出てきた単語で、これを私たちは適宜「プロセス、過程、工程」などと訳してきましたが、そのときはなんとなく訳に迷ってしまいました。

そのときジェイさんはコピーライティングについて話しており、

「その商品がどのように人の役に立つか考え、それを人々の心に届くようなメッセージとして構成し、その商品を実際に買ってもらい、人々の役に立つ、という『プロセス』は、とても報いが大きいものだ」

という意味のことを、伝えようとしておられたのでした。もちろんこの全てを言葉にされることなく、そう伝えようとした、という意味ですが。

それで、字幕が出る時間が短いことを考え、また前後の文脈からもなんとなくそれが伝わるだろうと判断した私は、ざっくりと「その『仕事』は報いが大きい」というように訳したのです。

が…

プロセス=仕事 という方程式が、私にはどうしても不自然に感じました。もちろん、翻訳(特に字幕訳)では、全てを字義通りに、定訳通りに、訳すことはできません。しかし、私にはここで使われた「プロセス」という言葉が、とても大きな意味を帯びているように感じたのです。

もっと個人的な感情を言ってしまうと、「果たして自分は、自分の仕事を『プロセス』として見ているだろうか?」という疑問がむくむくと沸いてきたのでした。

翻訳という仕事は、実はかなり地味です。ひたすらにコンピューターに向かい、言葉と向き合い、その前後にあるものを忘れてしまいそうになることがあります。

自分に割り当てられた仕事、特にそれが専門性に特化している場合に、それに真剣に取り組む姿勢が悪いものだとは思いません。むしろ、日本人ならではの「職人気質」というか、こだわりを持って仕事に取り組む人を私は尊敬し、自分もそうなりたいと思っています。

しかしそれが、その場だけの、独りよがりのものになってしまう傾向は避けたいところです。

ほとんどのビジネスに、ジェイさんが言ったようなプロセスが存在していることでしょう。「どんな人の、どんな問題を解決できるか」「実際に使ってもらったときにどう感じてもらえるか」といったところから始まり、商品やサービスを提供し、それに対するフィードバックをもらい、商品やサービスに反映させる、といったサイクルです。それを無視して、自分の主観だけに頼って「良いもの」を作ったところで、人に対価を支払ってもらえるかと言うと、怪しいところです。もはや「仕事」と呼ぶことすらできないように思います。

特にサービス業などの場合、Service という言葉は文字通り「人に仕える」ことを意味しています。プロセスを意識してこそ、仕事として成り立つように思います。

そういえば「仕事」という言葉にも「仕える」という漢字が使われていますね。

自動車保険の対応を受けたときに、なんとなくこんな風に思ったことを思い出しましたが、組織が大きければ大きいほど、自分の仕事を「プロセス」の一部と見ることは難しくなるのかもしれません。仕事を分担しなければ、クライアントに満足してもらえるような質の高いサービスを提供することは難しいでしょうし。

それでも、自分の仕事を「プロセス」として見ることを忘れないでいたい、と私は思います。

小さなネジが大きな飛行機を支えたり、小さな歯車が大きな時計を動かしたりするのと同じように、小さな小さな自分も、大きなプロセスの一部であることを、常に意識したいものです。

(a_washiyama)


a.washiyama

a_washiyama:
ShimaFuji IEM 翻訳チームのメンバーです。
翻訳家としてまだまだ勉強中ですが、ジェイさんのお考えを分かり易く、正確にお伝えできるよう、邁進して参ります!