近くて遠い「あなた」との関係

翻訳を学ぶ人が最初に習うことは、おそらく「代名詞を訳さない」ということでしょう。
いわゆる直訳から、日本語らしい日本語にするための第一歩が、「代名詞」を訳さない、ということなのです。

たとえばこの文章。山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

夏目漱石の有名な『草枕』の冒頭です。
仮にこの文章が英訳されていて、その英文を直訳したとすると、たぶんこんな日本語になるはずです。

私は山路を上りながら、もしある人が論理的に行動したならば、
彼または彼女は多くの問題を引き起こすことだろう、
逆に、彼が周囲の人々の感情に調子を合わすならば、
彼は状況に巻き込まれてしまうだろう、
かといって、彼が自分の意思を押し通したとすると、
彼は思うようには行動できないだろう、と考えた。

うわ、直訳だ、と思いませんでしたか?
もちろん「智に働く」など、独特の言い回しの言い換えもあるのですが、何より動作主体、すなわち主語をすべて挿入しているために、いかにも英語らしい?日本語になってしまうわけです。
小説ばかりではありません。この文章を見てください。

携帯電話やパソコンに向かってインターネットを自由気ままに使用していると相手が自分と同じ人間であることを忘れがちになり、知らない間に人を傷つけたり、法律に違反したりする可能性もあります。(引用:「ネットエチケットについての注意書」)

おもしろいことに、この文章にも主語がありません。でも、私たちは特に「誰の話をしているんだ?」と疑問も抱かず、文章を読み、理解しているはずです。ところが、これは英文だと、Youという主語を補わなければ、文章として成立しないのです。

この場合のYouは、人一般を指す「総称人称」というもので、特に意味はないために、日本語には訳出しない、というルールが辞書にも書いてあります。

私もジェイさんの文章に出会うまでは、できるだけ代名詞を訳さず、特に「総称人称」は訳さない、という規則を守っていました。
ところが、です。
ジェイさんの文章は、Youが非常によく出てくるのです。
このYou、どうも「総称人称」ではない、明らかに読み手に向かって「あなた」と呼びかけている…。

それが私の思い込みだけではないことは、すぐにわかりました。

ジェイさんは自分の文章の中でしきりに、Youと呼びかけるだけでなく、広告のヘッドラインやセールスレターでも、YouYourという語を多く使うように、とはっきり言っています。総称人称ではない、今これを読んでいる「あなた」に向かって、語りかけなさい、と。

でも、ここで問題があります。
「あなた」という言葉は日本語として収まりの良い言葉ではないんです。
たとえば、

私たちはあなたにAAAというご提案をいたします。
あなたはこれまで~のようなときに、不満をお感じではありませんでしたか?
私たちは研究開発の結果、__という問題を解決いたしました。
あなたもきっとAAAには満足していただけると思います。

こんなダイレクトメールをもらうと、日本人的な感覚だと、ちょっと違和感を覚えたりしませんか?(あるいは、きっとこれは外資系だな、と思う)

そもそも私たちは日常で「あなた」という呼びかけを、対面する相手にあまりしません。「あなた」という呼びかけを使う人というと、真っ先に思い出すのがマスオさんを呼ぶサザエさんです。でも、夫に対してこんな呼びかけをする女性も、今の日本ではむしろ少数派ではないでしょうか。

二人称とは、一人称である「私」が呼びかける相手です。
日本語では一人称が「わたし」「ぼく」「おれ」「わたくし」「拙者」「吾輩」「おいら」「うち」…などと目まぐるしく変わるのに合わせて
「あなた」「君」「あんた」…と変わっていきます。それだけでなく、特に日本では「お父さん」「先生」「社長」…というように、話し手との関係性を反映した呼びかけが、日常的によく使われます。

そもそも「あなた」を使うと、親しみとはちがうニュアンスが現れてくる、とは思いませんか?
「あなたの問題点はね…」あとに続くのは、お説教、はたまた別れ話?

ですから、セールスレターを訳すときは「あなた」の代わりに「__様」という呼びかけを当てはめました。
英語だと、Mr.~というよそよそしい、それこそビジネスライクな響きがあって、決して好まれないこの呼びかけが、それでも日本語では、「ほかの誰でもない、__さんに話しかけているんですよ」
というニュアンスを伝えることができて、一番近いかな、と思ったのです。

ジェイさんの文章の中で「あなた」と訳されている箇所が目についたら、どうか今、この文章を読んでいらっしゃる「あなた」に、直接ジェイさんが話しかけている、と思ってほしいのです。それが伝わるよう、私たちもできるだけ、語りかけるような文体を心掛けています。

そうして、セールスレターなどのテキストの文中で、「__様」とあったら、今度は「あなた」が、話しかける相手の顔を思い浮かべながら、読んでみてほしいのです。  (ハットリサトコ)


hattori01ハットリサトコ:ShimaFuji IEM 翻訳チームに所属しております。
社会学系読み物や、フィクションの下訳、Webライターなど、さまざまな仕事を経て、ジェイ・エイブラハムの『限界はあなたの頭の中にしかない』と巡り合い、従来のビジネス書にはなかった深い思想性に強い共感を覚え、現代の社会でもっと多くの人に読んでもらいたい! と強く思うようになりました。難解なジェイさんの思想と取っ組み合いをしながら、チームのみなさんと、あーでもない、こーでもない、と頭をひねる毎日です。
ジェイさんを始め、さまざまな方の翻訳を通して、発見したことや気づいたことなど、お伝えしていけたらな、と思っています

人は城、人は石垣、人は堀

ジェイ・エイブラハム氏の哲学を深く考えるとき
私の頭に浮かんでくる1人の人物がいます。
それは、500年前の日本を生きた
名高い戦略家 武田信玄です。

戦国時代の日本は、それはそれは殺伐としており
親兄弟間の殺し合いすら、日常茶飯事だったとか。
あの織田信長が実の弟を討ったことは有名な話ですね。

信玄も父を追放し家督を継いではいるものの
毎年のように多額の仕送りをしていたそうです。
信玄はまた、独裁者ではなく
家臣との戦略会議をよく開いたといいます。
また、当時としては非常に珍しく
身分によらず実力のある者を進んで招き入れる
そんな 器の大きい人物でもあったとか。

そんな信玄の、数ある名言の中にこんなものがあります。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは見方、仇は敵なり」
信玄が家臣をとても大切にしていたことが伺える一言です。

ところで、
「なぜジェイ・エイブラハムの翻訳裏話で武田信玄なの?」と
皆さんうすうす疑問に感じていることでしょう。
いよいよ本題です。

“Team”

この一言をどう訳すか。
これに、私たちは迷ったことがあります。

「え?普通に『チーム』じゃダメなの?!」
と、多くの方が疑問に思われることでしょう。
ときにはこんな、何の専門用語でもない一言を訳すのに
私たちは多いに悩むことがあります。

それは、スタートアップを考えている人たちに向けた
動画の字幕を訳していたときのことでした。
ジェイさんは、スタートアップをする人が今後雇う人材を指して
“your team”と言ったのでした。

もちろん「チーム」という言葉は日本語でも普通に使われているけれど…
一般的に日本人が「チーム」という言葉を聞いて
頭に思い描くのは、ビジネスではなくスポーツなのでは?

そう、スラムダンク、キャプテン翼、はたまたアタックNo.1のような…
とにかくその言葉には、友情、涙、熱血、団結といったイメージが
付いて回るものではないでしょうか。

「では英語のteamは違うの?」というと
そんなことはありません。
ただし、大企業、中小企業に関わらず
また上司や部下が入り混じっているかどうかに関わらず
一緒に仕事をする仲間を“team”と呼ぶのは
ごくごく普通のことと言えます。

でも日本では違うのではないか、と私たちはふと思ったのでした。

文字が何秒かのうちに現れて消えてしまう字幕の場合には
言葉のイメージが非常に重要です。
ここで「チーム」という言葉を使って、
スラムダンクを連想させてしまって良いのか?!

ではどうすれば?
いくつかの提案がありました。
「スタッフ」「従業員」などの訳を当てようかと。
もちろんそれでも意味が通る訳にすることはできました。

が…

結局のところ私たちは、敢えて「チーム」という訳を選びました。
ジェイさんがそのとき伝えたかったのは
まさにスポーツのチームに関して私たちが連想するような
「心のつながり」だと思ったからです。

ジェイさんの卓越論からは
「人を敬って、大切にすればするほど、自分の得るものは大きくなる」という
メッセージが伝わってきます。

なんだか私は、先ほどの信玄の名言を思い出すのです。

日本企業の間でも「チーム」という言葉と考えが
もっと浸透していくといいな~と
そんな願いを込めて訳を選んだ、島藤翻訳チームでありました。

(a_washiyama)


a.washiyama

a_washiyama:
ShimaFuji IEM 翻訳チームのメンバーです。
翻訳家としてまだまだ勉強中ですが、ジェイさんのお考えを分かり易く、正確にお伝えできるよう、邁進して参ります!

意外なところで孟子と出会う

Jayさんの文章を訳していて、
You shouldn’t steal from yourself.
という文章に出くわしました。

直訳すれば、「あなたはあなた自身から盗むべきではない」ということですが、なんとなくよくわからない言葉です。前後のつながりもよくわからず、意味が取れません。

こんなふうに周りから浮いている言葉というのは、たいてい引用句の一節にちがいない、と思って検索してみました。
ビンゴ!です。
それも、なんと孟子だったのです。
有名な「惻隠の情」の箇所です。

惻隠(やさしさ)、羞悪(悪を憎む心)、辞譲(謙譲の心)、
是非の心(何が正しくて何が悪いかを判断する心)が生じぬ者は人とはいえない。
人にこの四端が存するのは、人に手足があるが如きものである。
この四端はそもそも己に備わっている。
それにも関わらず、自らそれを見失っているのは自らを害する者であると言える。
(”Readings in Classical Chinese Philosophy”からの筆者訳)

最後の
one is unable to be virtuous is to steal from oneself.
これが “steal from yourself” の原意だったのです!

つまり、自分に本来備わっているものを、自分で盗んで(無くして)はならない、ということだったんですね。以前もJayさんの文章の中に「孫子の兵法」が出てきたことがありましたが、うーん、Jayさんの博識、恐るべし、というところ。

でも、こんな風に疑問が氷解する瞬間は、とても楽しいものですね!

この孟子の一節も出てくる文章の翻訳は、今後「卓越論上級編」として、学習会やセミナーなどで皆様のお手元に届くかと思います。
そんなとき、ああ、こんな思いをしながら訳していたんだな、と(ちょっとだけ)思い出していただければ幸いです。

(ハットリサトコ)


hattori01ハットリサトコ: ShimaFuji IEM 翻訳チームに所属しております。
ジェイ・エイブラハムの『限界はあなたの頭の中にしかない』と巡り合い、
従来のビジネス書にはなかった深い思想性に強い共感を覚え、
現代の社会でもっと多くの人に読んでもらいたい! と強く思うようになりました。
難解なジェイさんの思想と取っ組み合いをしながら、
チームのみなさんと、あーでもない、こーでもない、と頭をひねる毎日です。

 

第1回メンタークラブ関西支部勉強会の報告

1月6日大阪で開かれた第1回メンタークラブ関西支部勉強会「質問の仕方」に、翻訳チームのスタッフとして参加させていただきました。

他者紹介のワークとは?

会員のみなさんが3つのテーブルに分かれて着席したあと、最初に行ったのは
①他者紹介のワークでした。

私たちは自分がどう外から見えているかわかりません。
ほぼ初対面のメンバーに、自分を紹介してもらうことを通して、自分がどのように他者の目に映っているかを知り、自分では気づかずにいた「自分の資産」を発見するきっかけとなるワークです。
また紹介する人にとっては、他者をよく見、その人の好さや個性を見つけ出し、それを言葉にする、というワークでもあります。

第一印象の重要性はよく言われることですが、実のところ私たちは初対面の人から驚くほど多くの情報を受け取っています。
ところがその情報の中身を、本人が知る機会はほとんどありません。
反対に受け取っている側も、それをはっきり言語化して意識にとどめることをしないため、多くの場合あいまいなまま、以降のコミュニケーションを規定するものになっていきます。

それを言語化し、しかもネガティブな言葉ではなく、ポジティブな言葉でそれを表現するというワークは、紹介する側も、される側も、得るところの多いものだと思います。

各テーブルとも、和気藹々とした雰囲気の中で、活発な話し合いがなされていました。

質問を掘り下げる

そのあとはいよいよ本題の
②質問を掘り下げるワークです。

壁にぶつかったり、行き詰ったりしたときに、私たちに必要なのは、優れた他者の視点であり、知恵や経験です。ところが適格なアドバイス、実践につながるアドバイスをもらおうとしても、適格な質問をしないでいると、どれほど優れた人であっても一般論になってしまいます。

私たちは、これまで受けて来た教育でも、職場環境の中でも、「適格な質問をする」方法を習ってきませんでした。
そのため、本当に聞かなければならない要点を、自分でも見つけることができず、漠然としたことを質問してしまったり、本質とは無関係なことに目を奪われて、要点を外したことを聞いてしまったりします。
ですからメンタークラブでは、今回「質問をする」ということに的を絞って、話し合いを行うことにしたのです。

今回特に意識したのは、「英語的思考で考える」ということでした。
動詞が主語の次に来る英語とはことなり、動詞が最後に来る日本語の性質から、私たち日本人の話は、
「~がどうなって、こうなって、ああだからこうなんだ」という形になりがちで、
「私がどうする」という形になりにくい、という問題があります。

“I think …, because….”
(私は…だと思う、というのも、これがこうしてこうなっているからだ)

という形式で話すことによって、その人が状況をいかに把握し、それに対してどうしていこうと考えているかが明確になっていきます。

日本人の質問にありがちな、状況をだらだら説明したあと、だからどうしたらいいですか、という、その人がこれから何をどうしたいのかも明確にならない質問から脱却するための最善の方法が、「英語的思考での質問の組立」ではないかと考えたのです。

集まったメンバーが抱いている質問を
「なぜそれが問題なのか」
「なぜそう思うのか」
「なぜ…」
「なぜ…」
と繰り返すことを通じて、問題を深めていく。
そうやって、その人が本当に聞きたい問題、逢着している問題をつかみ出していく、というワークでした。

2人1組で、途中パートナーを替えながらそれぞれの問題を話し合ったあと、最後にひとりずつ、メンバーの方にそれを発表していただきました。それに対して島藤代表からのコメント、それから「英語に翻訳できるかどうか」(英語的思考になっているかどうか)の観点から私がコメントを述べさせていただきました。

まだまだ話は尽きなかったのですが、閉館時間となり、次回のスケジュールとこのような学習会を全国に広げて行こう、またメンバーの方がぜひシェアしたい、と思われるお友だちにもお誘いいただくことを確認して、終了となりました。

第1回勉強会を終えて

今回の勉強会は、メンバーの方々の温かい雰囲気の中で、活発な討論がなされていくのを、興味深く拝見しておりました。遠くからご参加くださった方からも、終了後に「来た甲斐がありました」とのお言葉をいただき、うれしい気持ちでいっぱいになりました。

私たちがこれまでいた環境では、「自分の本当の意見を言わない」ことが良しとされてきました。つまり、自分の主観は全体の調和を乱すもの、という、陰に陽に感じられる圧力の中で、自分の考えではなく周囲が求める意見を言うことが良いこととされてきたのです。
「他人と同じ」であれば無難である、「他人と同じ」なら集団の中で孤立しないで済む。

でも、そうすることが、自分にとって苦しいことは、実は誰もが気づいてきたはずです。
けれども、どうしたら良いか、どうしたら自分の本当の意見を、チームワークを乱さず、なおかつ自分も全体も良くする方向で主張したら良いのか、そのモデルを示してくれる人が身近にはいませんでした。だから、自分の意見を表明することどころか、自分の頭の中だけでも確立することすら、私たちの多くは苦手なのだと思います。

まず、第一歩として、そんな息苦しさを取り除ける場、自分が本当に思っていることを言える場を、皆さんと共に作っていけたらな、と思います。

「勉強会」と名がついていますが、誰かが教え、誰かが教えられる、という関係性ではありません。相互に教え合い、学び合える、そんなフラットな場なので、ぜひ多くの方々のご参加をお願いしたいと思っています。

メンタークラブ学習会には、メンタークラブ、または戦略的思考学会のメンバーであればご参加いただけます。
ぜひ奮ってのご参加、お待ちしております。

ジェイ・エイブラハム メンタークラブとは
戦略的思考学会とは


服部聡子(ShimaFuji IEM 翻訳チームリーダー)
出産・退職後、在宅で働ける資格を身につけるために翻訳を学び始める。
約5年フィクション/ノンフィクションの下訳、ウェブ・ライターを経て、
『限界はあなたの頭の中にしかない』に巡り合い、深い共感を覚え、弊社に。

ネガティブイメージ・キャンペーン

最近、大手カジュアル衣料品チェーン店で買い物をした。
いつものとおり会計をしていると、レジの店員が最後に
「ご意見をお聞かせください」というようなことを言いながら、
アンケートはがきを商品の袋に入れた。
 
その申し訳なさそうな顔が何とも印象的だった。
他の店舗でも同様だった。最後に必ず一言添えながら、アンケートが同封された。
そのとき私が思い出したのは2つ。
1つはそのチェーン店の売上高が大きく減ったという最近のニュース。
 
それからもう1つは、昔勤めていた会社で、破たんした山一證券出身の人が言っていた
「アンケートって会社が行き詰まるとやるんですよね」という言葉だった。
 
絶好調のときのその衣料品チェーン店のレジの店員は、こんな顔はしていなかった。
 
勢いがあって、さすが大手と思わせる接客ぶりであった。
今でももちろん、みな感じが良いとは思うのだが
(競合の某海外アパレルの接客態度には、本当にあきれるときがある)、
はがきを入れるときの店員さんには、何だかみな一様に負のオーラが漂っているような気がした。
 
ビジネスは結局イメージに尽きると思う。
とくにこういった小売業であればなおさらであろう。
「売上が前年比大幅減」で
「店員がはがきを申し訳なさそうに入れる」店の服は、
たとえそれがまったく同じでも、
「売上が絶好調」で「店員の威勢が良い」店の服とは違うような気がするのである。
 
顧客の声が聞きたいのなら、他にもっと方法があるはずである。
単純に、すべてのレジで一言添えてはがきを挟み込むコスト自体が膨大なことに加えて、
店員も顧客も、みんなの気持ちが盛り下がるマイナス効果絶大のキャンペーンである。
 
ちなみにその山一證券出身の同僚が言っていたのは、山一がつぶれる直前の時期は、
やたら社内アンケートのオンパレードであったという話であった。
 
そのとき私(とその同僚)が勤めていた会社も業績が低迷し、社内調査を繰り返していたので、
彼の一言は、周りの空気を凍らせるのに十分な説得力のあるものであった。
 
あなたの会社はどうだろうか。
社内であれ社外であれ、アンケートをしているだろうか。
 
もちろんそれが効果的な場合もあるだろう。
貴重な情報やリストが手に入るかもしれない。
しかしそれは、そのコストと効果と影響を十分見積もった上でやっているものだろうか。
 
ちょっときつい言い方をするならば、自分で考えることをあきらめた末に、
「我々には顧客や社員の声が分かりません」
と丸投げしてはいないだろうか。
 
私はちなみにこの衣料品チェーン店を応援したいと思っている。
日本を背負って立つ存在として、海外でもいっそう頑張ってほしいと思っている。
 
だからこそぜひ彼らにはお願いしたい。
同じ膨大なコストをかけて顧客の意見を収集しようとするのなら、
当然ながらはがきをそのまま捨ててしまった私でも思わず返信してしまうような、
何か秘策を考えてほしいのである。
 


(新海祥子)

 

日本人のあいづち

人の感情の90%は、言葉以外の要素、身ぶりや表情、声のトーンなどで相手に伝わっているといいます。
ところが私たちは、自分の言葉に向けているほどの注意を言葉以外のものに向けているでしょうか?
私たちが気づかないところでコミュニケーションを左右している身ぶりについて、考えてみました。

あいづちというのは、日本人特有のしぐさだというと、
驚く人もいるかもしれません。

もちろん外国人も、相手の話に合わせて、うなづいたり、”Un-huh”と言ったりすることもありますが、
あくまでもこれは「同意」を表明するというニュアンスがあり、日本人のあいづちとは、少しちがうように思われます。

社会学者の多田道太郎も『しぐさの日本文化』の「あいづち」の章で、

日本人のしぐさということで私がまず思いつくのは「あいづち」である。

と言っています。

あいづちとは、多田によると、「鍛冶で、弟子が師と向かい合って互いに槌を打つこと」から来ているといいます。

弟子と師が槌をトンカントンカンと打ち合わすところを、向かい合うふたりの仕草になぞらえているのでしょう。
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wikipedia「刀工」

外国人は打ってくれないあいづち

あいづちというと、私が思い出すのは、こんな経験です。

高校時代、私は近所に住む外国人の家に、英語を習いに行っていたのですが、
そこで最初に気がついたのは、先生があいづちをまったく打ってくれないことでした。
私の眼にぴたっと視線を合わせたまま、通じているのかいないのか、じっと黙ったままなのです。

私もまだろくに言葉も出ないころで、”come” と “go” を言い間違えたりするときだけ訂正をしてくれるのですが、
それ以外は私が言葉に詰まって四苦八苦していても、じっと次の言葉を待っているのです。
相手の視線をはね返しながら話し続けるだけで、全身汗びっしょりになりました。
おそらくそれは、単に語学力の問題や、相手が外国人であるという緊張感ばかりではなかったはずです。

そのとき初めて、日本人が相手ではないと、あいづちというのは打ってくれないことを知ったのでした。
そうして、日本人である私にとって、あいづちのない話というのが、どれほど緊張感を増し、疲れるものかということに、
このとき初めて気がついたのです。

相手によっては誤解されることもあるあいづち

ふだん、私たちは意識しないまま、人の話を聞きながら、あいづちを打っています。
日本人同士なら、お互い、気にも留めないしぐさですが、外国人が相手だと、こんな摩擦を生むこともあります。

以前、聞いた話なのですが、あるアメリカ人が、日本人に頼み事をしました。
日本人はうなずきながら、”Oh, yes,” “yeah” ” I see.” としきりに言います。
アメリカ人は、てっきり相手が頼み事を聞いてくれるものだとばかり思っていたのですが、
最後に「それはできない」と断られてしまったというのです。
アメリカ人は、日本人は不誠実だ、何を考えているか本当にわからない、と、腹を立てた、というのです。
おそらくこの日本人は、日本でのあいづちを、そのまま英語でやってしまったのでしょう。
私はあなたの話を聞いています。
あなたも大変なのですね。
あなたの気持ちもよく理解できます。
それで、それからどうしたのですか?
もっと聞かせてください。
そういう意味でのうなづきや、”Oh, yes,” “yeah” ” I see.”だったのでしょう。

このことは逆に、私たちが無意識にしているあいづちがどういうものか、教えてくれます。
日本人のあいづちは、相手の言葉に賛同を示すというより、私はあなたの話を聞いていますよ、というサインなのです。

Photo by:Dean Wissing

話を引き出すのは「聞いている」という身ぶり

子供の頃、授業中におしゃべりしていると、先生が怒るのは、あたりまえの光景でした。
子供だった私は、別に悪いことをしているという意識もなく、
怒られた時だけ静かにして、じきにおしゃべりを再開したものです。
やがて、人前で話をする機会を得て気づいたのは、
自分が話しているときに私語を交わされるのは、なんともいえず辛い、ということでした。

聞いてもらえないと、事態に支障をきたすという実際的な理由より、むしろ、精神的に辛くなってくるのです。
そのとき初めて、先生が怒っていた本当の理由に思い至りました。
私語を交わしている側は、軽い気持ちでそうしているのでしょうが、話す側からすれば、自分の話を無視して、私語に興じる姿は、
おおげさに言うと、自分の存在が否定されているような気持ちになるのです。
逆に、こちらと目を合わせて、うなずきながら聞いてくれる人がいるのがわかると、
話す口調にも自然に力がこもって、あとでふり返っても、良い話ができたな、と満足できるのでした。
結局のところ、話を引き出すのは、話し手の側よりも、聞き手の「聞いている」という身ぶりということになるのでしょう。

「聞いている」という身ぶりは、さまざまな文化によって異なる現れ方をするものです。
日本人のように、頻繁にあいづちを打ったり、うなずいたりする文化もあれば、
相手の眼をじっと見つめ、ほとんど身動きもせず「一心に聞く」という文化もあるのでしょう。

けれどもそれは「聞いている」というサインであることには変わりはないはずです。
おそらくあいづちを打ってもらえず、冷や汗をかいたかつての私も、日本人の最後のノーに腹を立てたアメリカ人も、
異なる文化に直面したとまどいだったのでしょう。

そうしてその根底にあったのは、相手は自分の話を本当に聞いてくれているのだろうか、
という不安だったのだろうと思うのです。

コミュニケーションというと、私たちはどこかで、
「自分の考えや思いを、相手に伝えること」という風には思っていないでしょうか。

けれども、「伝えること」を引き出すのは、相手の「聞いている」という身ぶりだとしたら。
真摯な「聞いている」という態度こそが、コミュニケーションを支えているのだとしたら。

面接でも、ミーティングでも、商談でも、私たちのコミュニケーションのあり方は、少し、変わっていくのかもしれません。

 

 


(服部聡子)