by ペネロペ・トランク
望むものすべてを手にしている人とは、
実は、みずからすすんで手放すものを、はっきりさせている人のことです。
あなたは自分が月に行けないことを、悲しく感じますか?
おそらくそんなことはないでしょう。
それは、自分が生涯、月に行くことはないことを、受け入れているからです。
ところが私たちは、自分が最高の生活を送っていると思いたい一心で、
そこまで現実離れしていないことを、ふと考え始めてしまいます。
それでも、たとえばタイに旅行に行くことを、
月に行くことと同じカテゴリーに入れてしまうこともできます。
そうすればタイに行けないことを、残念に思わないですみます。
自分には、なんでもやりたいことをする時間がある、と考えることもできるのです。
「なんでも」の中身をはっきりと定義しさえすれば。
1. 自分があきらめるもののリストを作る
重大なものごとのほとんどは、自分の手には入らない、
自分はそれをあきらめなければならない、と納得すれば、
人生はずいぶん対処しやすくなります。
その秘訣は、あきらめる何かに代わるものはないか、
試行錯誤を重ねることです。
あることをあきらめ、何かを試し、
それからまたほかのことをあきらめ、また何かを試してみる。
あなたは自分があきらめようとしていることの多くが、
かつては譲れないと思っていたことであったことに驚くはずです。
友だちを作ること、本を読むこと、大都会に暮らすこと……。
私にもそうした多くのあきらめなければならないことがありました。
実際に、多くをあきらめてきて(皮肉なことに、そうなると今度は
自分が何もあきらめてはいないような幻想が生まれます)、
やがて私は、何かをあきらめるたびに、お祝いをしようと思うようになりました。
それは、あきらめるごとに、私が自分の目標に少し、近づいていることがわかったからです。
2. 大きいものを手に入れることは、大きいものをあきらめること
私はかつて、妻は自分のキャリアの補完物だと考えているような
多くの男性とデートしてきました。
ところが、新しい時代のトロフィー・ワイフ
(※年配の男性が自分の権力を誇示しようとして結婚する、若く美しい女性)は、
頭脳明晰で自分の華々しいキャリアを、男性のために断念する女性に変わってきています。
(アマル・アラマディンはまさにジョージ・クルーニーのためにそのことをしようとしています)
私の夫は、生まれてからずっと必死で働いて、大富豪になりましたが、
その富とは土の中にあるものです。
ですから私も、農場と家が手に入ったものの、
生活費のために、仕事は続けなければなりませんでした。
私はそうした生き方を選び、いまの生活に満足しています。
けれども、私にそういうことができたのも、サポートしてくれる夫がいたからでした。
仕事で成功を収めている人は、配偶者のサポートがあることを、多くの研究が証明しています。
サポートとは、たとえば、家で家族のために、実際にあれこれする、ということです。
上にあげた写真が、私が一日、家を空けて仕事ができる理由です。
この写真を撮った日は、私は平和と静寂を求めて、町の図書館に出かけたのです。
(そこから抜け出したくても、農場にはコーヒー・ショップも、シェアオフィスも、
おしゃれなホテルもありません)
私が図書館にいる間、夫が子供たちとその友だちの面倒を見てくれていました。
夏の終わりの暑い日のことでした。
子供たちはブタの泥浴び用のどろの中で泳ぎたい、と言いだし、
夫もそれにO.K.を出したのです。
3. 仕事と生活は、バランスではなくブレンドするもの
現実を簡単にチェックしてみましょう。
私の夫はいつも近くにいて、一日中農場で働いています。
しかも喜んで子供の世話をしてくれます。
それでも子供たちの面倒や、家事のほとんどをやっているのは、私の方です。
しかも、最新データに基づいた本” Overwhelmed (原題「圧倒されて」)“の著者
ブリジット・シュルテによると、
男性と女性が、オフィスや自宅で、どのように仕事を分割しているかの実態は、
私の状態が、まったくの標準だというのです。
男性にとっても、女性にとっても、ワークライフバランスという考え方自体が茶番なのは、
すでに明白なことでしょう。
そこにはバランスなどないのです。
全部ひっくるめてやっていくしかないのです。
知人の中の誰よりも機能的な人でさえ、
プライベートと仕事との両方にまたがるリストを持っています。
配偶者が専業主婦/主夫の、極端なワーカホリックだって、
月にひとつやふたつは私的な用件を、勤務時間中に片づけることはあるはずです。
在宅で仕事をする知人は、やることリストのすべての用件に
A、B、Cとランク付けしています。
あるときは、家のことがAランクのトップに、
また別の日には仕事がその位置に来ています。
やることリストというのは、生活全般のためのものであって、
生活の一側面だけのためにあるものではありません。
ひとりの人間として、統合されているという感覚は、気分の良いものですし、
しかも、リストだってひとつだけでいいのですから、
時間を大きく使える良い方法でもあります。
4. 時間全体に焦点を合わせたり、時間の一部に注目したり
私が考え出したことの中でも、なかなか賢明なことのひとつに、
仕事を「ひとりの時間にする仕事」と、「複数で処理する仕事」という観点から見る、
というものがあります。
私たちは、集中せずにものごとをやると、あまりうまくいきません。
ところが集中して仕事ができる時間は、きわめて限られています。
一方、多くの時間、私たちは注意をあちこちに分散させながら過ごしています。
ですから当然、そこまで集中を要さない仕事なら、
もっとたくさんする時間があるはずなのです。
さて、複数で処理する仕事というと、
なんでもかんでも人まかせにしようとしているのではないか、と、
当然の反論が返ってきそうです。
事実、人に仕事をまかせようとをすると、
君は他人に押しつけようと必死なんだな、などと言われかねません。
自分の手元からよそへやってしまうということにはちがいないのですから。
けれども、あらゆることを人まかせにすることはできないので、
まかせられないことは、「どこででもやる」ことに移していくことを
学ばなくてはなりません。
たとえば、子供がいる人は、ほんの少ししかない自分ひとりの時間に、
わざわざエクササイズなどしたくありません。
そこで、なんとかエクササイズを、ほかのことをしている時間にねじこもうとするのです。
オリンピックの有望な候補でもあるサーシャ・パチェフは、
彼の子供たちと一緒に走り始めたので、
自分ひとりの時間を苦労して捻出する必要はありませんでした。
彼は今、クロックスをはいて走っているのですが、
それは彼の5人の子供たちがクロックスをはいて走ったら速かったからなのです。
以前、娘を連れたお母さんと、同じホテルに泊まったこともあります。
その娘は、母親が走ることができるように、
ランニングマシンの脇でバイオリンの練習をしていました。
私は最初、このお母さんは頭がおかしいのかと思ったのですが、
すぐに、自分に必要なものをなんとしても手に入れようとする、
すばらしい解決策を編み出したのと思うようになりました。
こうした親は、かつては「ひとりの時間にすること」にリストアップされていたことを、
「子供たちと一緒にすること」のリストに移す方法を思いついたのです。
私は「ひとりの時間」リストから何かを移動させることができるたび、
とても幸せな気持ちになります。
というのも、人にはさせない仕事のために時間を作ることは、
私にとっては、ひとりになれる時間を作ることでもあるのですから。
5. ほかの人からどう思われるか、自分が気にしていることを認める
―― それが気にするのをやめる第一歩
同僚からのプレッシャーが気になって、それが生産性にあらわれることがあります。
カレン・ホーは “Liquidated(原題「解体」)” の中で、
「ウォールストリートでは、ハードワークはかならずオーバーワークになる」
と書いています。
この風潮は、私の起業家としての生活にも、忍び寄ってきています。
自分の勤務時間をチェックしてみると、怖ろしいことに、
農場に引っ越してくる前は、週に80時間近くも働いていたのです。
いったいどのように働いていたのか、
どう考えてもわかりません。
いまでも自分には、正気の沙汰ではないほど働かなくても、仕事でうまくやっていくことはできる、
と言い聞かせなくてはならないのです。
自分が自分に大きなプレッシャーをかけているのは、
カレン・ホーが取り上げたような人たちに、軽く見られたくないからにほかなりません。
ジェームズ・スロウィッキーは「ニューヨーカー」でこんなことを書いています。
「オーバーワークは成功の証明書となった」
もし自分が長く働かなければ、失敗者だと思われる、という危惧が生じる理由を、
この言葉はまさに言い当てています。
もっとも筆者は、多くの知識労働者の生産性は、
9時から5時まで働く労働者の生産性にくらべて定量化するのが非常にむずかしい、
ということも書いているのですが。
そうして、このことこそ、時間についての私たちの強迫観念の根本にあることです。
さて、もうひとつ。
私は自分がその場には居合わせなかったので、
ここにあげた写真を使わずにいるところでした。
私は一日の多くの時間を子供たちと一緒に過ごしているのですが、
それでもまだ、多くのことがらを見逃しています。
きっと多くの人はこう考えるでしょう。
「それでいいじゃないか。
誰も、24時間、子供のすべてを見ているわけじゃない」
でも、こんなキャプションのついた子供たちの写真を見た人はいないはずです。
「私が仕事をしているあいだ、子供たちはこんなことをしていた」
インターネットには、自分がどれほどすばらしい人生を送っているか、
語る人であふれています。
どれだけすばらしい仕事をしているかについて、語る人も。
自分が世界で最高の親である、と語る人も。
ついでに自分たちが仕事も、親としても、最高である、と語るばかな人たちもいます。
私は、理想的に見えたとしても、そんなものには意味がないということを、
なんとか理解しようとしているところです。
そうして私がすばらしいと感じるものこそがすべてだという方向に、
自分を持っていこうとしています。
結局のところ、私は選択をする人間なのです。
そうして、私は極めて多くのものを選択することができます。
ただ、すべてではない、というだけ。
だから、私は時間を完璧に管理している、と考えることにしているのです。
というのも、ここには私が図書館で仕事をしていた日に撮った、
もう一枚の写真があるからです。
私はみんながブタの泥浴び場の泥を、庭で洗い落としているさなかに、見事に帰ってきました。
そうしてこの美しい情景、泥の痕跡さえない情景を、目の当たりにできたのです。
著者 Penelope Trunk :4つのスタートアップを起業。彼女のキャリア・アドバイスは、全米200の新聞に掲載されている。
元記事:http://blog.penelopetrunk.com/2014/09/29/5-steps-to-making-time-for-everything/
(翻訳:服部聡子)