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退屈していた2人の主婦が起こしたPC革命 後編

 

前編から続く

1970年代、パソコン市場の成長は急激なもので、

デザインや価格が週ごとに変わっていくほどでした。

 

2年間のうちに、パソコンとは、コンピューターマニアがキットを購入して自作するようなものから、

完成された1つのシステムとして製造されるようなものへと変貌を遂げたのです。

大きな部品が沢山ついているボード、重たい金属のフレーム、大きな電源装置、

高価な接続部品などを搭載したS-100ベースのシステムは、

シンプルな設計の家庭用パソコンに太刀打ちできなくなって行きました。

 

TRS-80やコモドールPETなどの手頃な価格のマシンが低価格市場を独占するようになり、

S-100を販売するベクターや、クロメンコ、IMSAIなどの企業は高価格市場にシフトし、

S-100のカスタム機能の可能性に魅力を感じるコアなビジネス顧客層をターゲットにするようになったのです。

 

S-100などの旧型コンピューターと、新型のパソコンの価格は、驚くほど隔たっていました。

1979年、フロッピーディスクを搭載したアップルⅡ+は、

家庭用パソコンの高価格市場と、小企業用の低価格市場向けに、基本モデルのみの構成で、

およそ2,000ドルで売り出されました。

 

一方クロメンコやベクターS-100バス・システムは、

RAMやハードディスクなどの付属品によって差はあるものの、

およそ4,000ドルから20,000ドルの価格帯で販売されていました。

インフレのことを考慮に入れなかったとしても、

高価格市場向けの最新コンピューターシステムが、

メルセデスベンツとさほど変わらない価格にまで急騰していたのです。

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▲「社会の進歩のためのコンピューター」を高らかに謳うベクターの広告

 

低価格パソコンの機能が上昇する中で、

ベクターはアップルがじりじりと追いついてくるのを感じていました。

1979年にビジカルクが最初の表計算ソフトを開発したことにより、

多くの企業がコンピューターの購入を検討し始めました―

―ところが、ビジカルクはアップルⅡでしか動かなかったのです。

 

「当時、高価格市場でも低価格市場でも、最上級品やシステム、

最低価格、個人向け、あらゆる部門でアップルとの熾烈な競争が巻き起こっていたのです」

と当時の状況をイーリーはふり返ります。

 

前へ、上へ

 

‘70年代後半、中小企業をターゲットにしたベクターの売上は急上昇し、

生産性ソフトウェアと、完全なターンキー・システムを搭載したマシンを、

市場に続々と投入していきました。

 

一方マスコミは、数百万ドルの会社を創りあげた

カリフォルニアの主婦の物語に熱狂していきました。

ついにローレ・ハープは複数の雑誌の表紙を飾るまでになったのです。

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▲Incマガジンの表紙を飾ったローレ・ハープ

 

ベクターは一躍、注目の的になりました。

パーソナル・コンピューター・ブランドの最初期の1企業として、

無料の業界紙に登場したベクターも、いまや主流の雑誌を飾るまでになりました。

 

後年、評論家として名を馳せるジョン・C・ドボラックは、

当時『インフォワールド』でこのように述べています。

 

「ビル・ゴドブーやジョージ・モロー、クロメンコやS-100コンピューターが、

コンピューター専門誌の『バイト』に載っていたのに対し、

ベクター・グラフィックの広告は、『ビジネス・ウィーク』に掲載され、

ローレ・ハープが『インク』(1981年3月号:中小企業向けビジネス雑誌)の表紙を飾るようになっていた。」

 

業界では、ローレとキャロルは「緑と白の娘たち」として知られるようになっていました。

トレードショーや会議などでは、企業カラーの緑と白の服を着ていたからです。

ローレはマスコミの寵児となりました。

業界の著名人であるビル・ゲイツや、

のちにオズボーン・コンピューター社を設立するアダム・オズボーンとの交流を楽しんだのです。

80年代初頭には、カリフォルニア州知事のジェリー・ブラウンや、

カリフォルニア州技術者代表団の一員だったスティーブ・ジョブスと共に、

パリのパーティに参加するまでになったのです。

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▲1981年のパーティでのローレとアダム・オズボーン

 

とはいえ、ローレはテクノ・セレブを気取ったわけではありません。

自分の分野でのビジネスの専門家となろうとしたのです。

 

ベクターが不運に見舞われ始めた後に発表された1983年のニューヨーク・タイムズの記事の中で、

マイケル・マローンはこのように述べています。

 

「ローレ・ハープがただの経営者ではなかったことは、

すぐに明らかになっていた。

彼女は鋭い感覚で、市場のニーズと可能性を感じ取り、

会社を導いたのである。」

 

最高責任者として、ローレは倹約に努め、利益を生むキャッシュフローを創り、

借金を回避することを誇りとしていました。

個人としてのローレは、2人の幼い娘の母親という役割が、

自分の大きなビジネス資産だった、と言います。

従業員と自分の家族の幸せを大切にする、という母性本能が、

仕事の面でも十分に活かされたのです。

1980年代初頭にベクターで技術者として働いていたデニス・ウィンゴは、

「ベクターは仲の良い家族のようでした。

このことはCEOとして会社を切り盛りしていたローレによるところが少なくないと思います」

とコメントしています。

 

ウィンゴによれば、ローレは人間中心主義の経営スタイルで知られるようになっていった、と言います。

学歴や性別より、成果やスキルによる昇進という実力主義で、会社を経営していったのです。

1981年、ローレはインタビューで、ベクターはなぜ女性をもっと雇用しないのか? と問われ、

仕事に適した人材なら誰でも雇用している、性別は無関係です、と答えています。

 

今日までローレは、業界において、男性から特別な抵抗は受けたことがない、と言っています。

彼女がアイアン・メイデン(鉄の処女)ならぬ「アイス・メイデン」と評されたときも、

彼女は自分が前進し、成果を上げてきたことのあらわれと受け取りました。

 

キャロル・イーリーがウォール街で働いていた頃は、

女性が昇進することは、ほとんどありませんでした。

ベクターでそのような問題が起こらなかったのは、

キャロルとローレが2人とも女性であり、公平なやり方で運営される企業文化が

はっきりしていたからだろう、とキャロルは語っています。

 

一方で、ボブ・ハープは、メディアはキャロルとローレが女性であることに対して、

過剰に注目していると感じるようになっていました。

実際のところ、会社を今ある状態にしたのは彼だったし、

ボブのハードウェアの設計がなければ、不可能でした

(現在では彼も、ローレの粘り強さと統率力を認めていますが)。

 

テクノロジー企業の3大部門をローレ、キャロル、ボブは担っていた

プロモーション部門のトップとしてキャロルは、

女性がテクノロジー企業の経営者を務めることが大きな訴求力を持つことを理解していたために、

ローレが企業の顔として注目を集め、自分が脇へ退くことに、まったく問題を感じていませんでした。

 

「自然にそうなったのです。人に会うのはローレでした。

ローレがいつも前面に立ったのです」とキャロルは言います。

 

しかし、ボブにとっては女性の代表にばかり注目が集まることに、

ボブは次第にいらだちを隠せなくなってきました。

マスコミが技術系の質問をしたときは、キャロルはかならず質疑にボブを加えていた、

と当時をふり返ります

(当時の記事は確かにそれを裏づけていますが、

ボブがローレほど脚光を浴びることは、決してありませんでした)。

 

現在からすれば、ベクター初期の成功が、

チームワークと、創設者らが、それぞれの才能を発揮し、

それを結集したことによるものであることは明らかです。

ローレ、キャロル、ボブは、テクノロジー企業の主要3部門、

経営、マーケティング、エンジニアリングを、それぞれが代表していたのです。

テクノロジー企業ばかりでなく、どんな企業であっても、

創業時には最強のメンバーだったと言えるでしょう。

 

「私たち3人は、良いチームでした。グッド・トリオだったのです」

とキャロルは言います。

 

けれども、大きな成功は大きなプレッシャーをも引き起こします。

1980年、パートナーシップにはひびが入り始めたのです。

企業経営のストレスは、ボブとローレの結婚生活の大きな負担となり、

やがてふたりは離婚の道を選びます。

そこで生じた不協和音は、会社全体に波及することになりました。

(『タイム』はボブの言葉を引用しています。

「自我と自我のぶつかり合いでした。

彼女は自分のやり方を通そうとし、私は別のやり方を主張したのです」)

 

ローレは、離婚しても会社にはほとんど影響はないだろう、と考えていたのですが、

社長とチーフ・プロダクトデザイナーの亀裂は、

会社の苦境をお膳立てすることになってしまいました。

問題を起こす時期も悪かったのです。

ベクター社の厳しい日々は、すぐ目の前に迫っていました。

 

眠れる巨人が目を覚ます

 

1980年前後、IBMは既存のコンピューター・ハードウェアを、

IBMブランドのパーソナル・コンピューターとして提供してもよい、

というライセンス供与をちらつかせながら、マイクロコンピューター業界に参入してきました。

 

IBMは、メインフレーム・コンピューター・メーカーの筆頭としての影響力を利用しつつ、

小規模パソコン企業の多くに「キモノの前を開いて」(当時の業界用語)、

彼らのテクノロジーの本質と、PC事業が実際、どれほど儲かるかを明らかにしました。

さらに当時、主要なソフトウェア開発会社だったデジタル・リサーチ

(実はあまり真剣な打ち合わせではなかった)や、

マイクロソフト(こちらとは真剣な打ち合わせを行った)と競技したことは有名な話です。

 

「私たちには1年しか残されていません。彼らが参入したからには、世界は変わるでしょう」

 

ベクターも1980年にIBMの訪問を受けていました。

IBMの新規パーソナル・コンピューター・プロジェクトのリーダーであるドン・エストリッジは、

7人の同僚と共に、カリフォルニア州サウザンドオークスにあるベクター本社を訪れました。

ローレはその時のことを思い返します。

 

「私はドンを見て言ったんです。

『冗談でしょ?あなた方は収益が250億ドルもある企業でしょう。

私たちは2,500万ドルがせいぜいよ。それが私たちとOEM契約を結ぼうだなんて』って」

 

結局、契約までには至りませんでしたが、面談は丁重な言葉を交わして終わり、

IBMはベクター3システムを評価するために持ち帰りました。

 

「私はそのあとすぐ、ミーティングを招集しましてこう言ったんです。

『私たちには1年しか残されていません。

彼らが参入したからには、世界は変わるでしょう』」

とローレはふり返ります。

 

マーケティングの観点から、キャロル・イーリーはIBMの参入を恐れていました。

「どうしようもなく怖くなりました。

IBMは私たちのシステムを買って、新しい開発研究室のあるボカラトンに持って行ったんです。

私たちは思いました。『しばらく様子を見るしかなさそうね』って」

 

IBMが小規模システム事業に参入してくる明確な徴候を目の当たりにして、

ローレは残された時間がわずかであることを知りました。

未だチャンスがある内に、株式を公開する計画を立てたのです。

 

結局IBMは、ベクターのハードウェアを使用しませんでしたが

(また、ベクターの社員が怖れたように、コピーすることもありませんでしたが)、

IBMが行ったことは、さらに破壊的な打撃をベクターに与えることになりました。

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▲IBMが初めてPCを発売した1981年の広告

 

IBMはベクターがビジネスソフトウェア共有元と築きあげた、深い関係を調査しました。

その中にはピーチツリー・ソフトウェアなどの

人気のある会計パッケージソフト・メーカーなども含まれます。

そうして発売前に、IBMは密かにそうしたソフト・ウェア供給元と契約を結び、

IBMのパソコンが最初からそうしたアプリケーションを使用できるようにしたのです。

これは中小企業向けPC市場においてベクターが築いてきた、

ソフトウェア主導による優位性を、著しく損なうものとなりました。

 

パーソナル・コンピューティングの、将来における戦いが、

共有化されたプラットフォーム上のソフトを巡る戦いになるのかどうか、

当時、業界では誰にもわかってはいませんでした。

しかし、ボブ・ハープは強い予感を抱いていたのです。

彼は、IBMのパソコンは、ベクター社の存続を脅かすものだと見て取りました。

 

「IBMがシステムのアーキテクチャでソフトウェアを動かそうとしていることは明らかでした」

とボブは言います。

「生き残ろうと思えば、IBMと互換性を持つしかありませんでした」

 

ボブはベクターの取締役会に対して、

IBMパソコンと互換性のあるマシンを販売しなければならない、

と主張しましたが、ローレと他の重役から反対されました。

 

ベクターから見れば、IBM互換機という選択肢は、およそ意味の通らないものでした。

新しい、未確認のプラットフォームに急遽転換などすれば、

過去5年間にわたって成功を証明してきたCP/Mベースのシステムを捨てることによって、

顧客との関係を悪くすることに他なりません。

 

パソコンの互換性をめぐる言い争いは、ボブの不満をさらに募らせることになりました。

まもなく他人となる妻の下で働くことにも嫌気がさしており、

今や企業の先行きにも暗雲がたちこめていました。

彼はベクターの取締役に当てつけで、就業時間中に関係のないプロジェクトに取り組むようになっていました。

 

「私はここを去らなければならない、と感じていました。

新しい互換性のあるパソコンを開発しなければ、と」

とボブは言います。

 

ベクターの取締役会は彼の意志を受け入れ、1981年にボブを解雇しました。

翌年、ボブはIBMのクローンPCを初めて開発したコロナ・データ・システムズを設立します。

ベクターにとっては、1976年以来、

ハードウェアのほとんどすべてを手がけてきた技術者を失うことは、

言葉に尽くせぬほどの打撃となったのでした。

 

しかし1981年は悪いことばかりではありませんでした。

その年の初めにベクターは株式を公開する準備をし、

ローレは従業員すべてに売上の成果として、毎年100株ずつ交付することにしたのです。

 

「株式引受人は憤慨していました。」とローレは当時のことを思い出します。

「彼らは言ったんです。『我々の株は、経営のためのものだ』って」

 

ローレの頭の中では、組み立てラインのもっとも低賃金の従業員であっても、

会社のあらゆる人は等しく重要な一員でした。

彼がネジをなくしたり、ミスをしたりすれば、

会社全体でその責めを負うべきだと考えていたのです。

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▲1982年ベクター社の年次報告の表紙

 

言うまでもなく、このことは社内では喜んで迎えられました。

10月の株式公開時には、創設者は最終的に1人あたり3000,000ドル以上を得、

1株13ドルで1000,000株を提供することになったのです。

 

IBMの市場への参入は業界に誰の目にも明らかな影響を及ぼした

 

「ワクワクするようなことでした。本当にすばらしかった」

新規株式公開時のことを、ローレはこのように語っています。

こうして彼女の業績は頂点を迎えます。

彼女は女性としてニューヨーク証券取引所に初めて上場した企業創設者となったのです。

 

しかし、お祝いは長くは続きませんでした。

8月、IBMがパーソナル・コンピューター市場に参入し、業界を震撼させます。

これまでS-100を購入していた企業は、

IBMパソコンや、IBMのハードウェアとマイクロソフトのMS-DOSオペレーティングシステムと

互換性を持つマシンを買うようになったのです。

 

ベクターがデュアルプロセッサーによってIBMの脅威に対抗しようとしたのは、

2年後のことでした。

 

このベクター4は、これまでずっと使用してきたCP/Mを、

限定的なMS-DOS との互換性によってサポートするという、

IBMパソコンが市場を支配する将来への橋渡しを意図したものでした。

 

けれどもそれはあまりにささやかな反撃、遅すぎる反撃でした。

IBMパソコンとの互換性を退けた時点で、ベクターの運命は決まっていたのです。

ベクターはすでに終わっていたのです。

ただそれに気がついていなかっただけでした。

 

終焉のはじまり

 

1982年、ローレは技術誌業界の大物、パトリック・マクガヴァンと再婚しました。

彼は調査会社IDCの創設者であり、『コンピューターワールド』、

『インフォワールド』(のちに『PCワールド』、『マックワールド』『ゲームプロ』などの雑誌までも手がけた)

を発行する出版人でもありました。

 

そんな彼と新生活をスタートさせるにあたって、

ローレは自分の結婚生活にもっと時間を割かなくては、と考えるようになったのです。

 

同年6月には社長兼CEOの職を、ハネウェル社のベテラン、フレッド・スノウに譲り、

自分は会長職だけにとどまりました。

しかし、スノウの就任と同時に売上は下降線をたどり、

1983年5月、ベクターの取締役会は、ローレに社長兼CEOに戻るよう懇願します。

その結果ローレは、サンフランシスコの自宅から、

毎日往復1,300キロを通勤することになりました。

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▲それでもローレは一般誌の表紙を飾っていた

 

1983年になると、ベクターの経営は、沈みかけた船で、

なんとか目的地までたどりつこうとしているようなものになっていました。

中小企業が軒並みIBMパソコンに切り替わっていったために、売上は激減し始めます。

 

毎日の長距離通勤に疲れ、取締役会からも疎まれ始めたことで、

ローレは、もうたくさんだ、と思うようになりました。

ふたたび職を退いたのです―今度は永久に。

1984年のことでした。彼女は40才になっていました。

 

彼女がいなくなってから、ベクターは日増しに絶望的になっていきました。

会社の歳入は、ピーク時だった1981年の3,620万ドルから、

1984年には210万ドルまで落ち込んでいました。

ベクターの最終モデルのひとつ、ベクター SXは、

致命傷にバンドエイドを張って、会社を救おうとするようなものでした。

 

1983年の『インフォワールド』の記事は、

その4月に発売中のベクターSXについて、マーケティング・ディレクターのロン・サープが、

SXのIBM互換対応型フロッピー・ドライブは、

「IBMとの互換性に対して著しい進歩を遂げた」と根拠もなく断言しています。

 

このはっきりしない記事から推測できるのは、

ベクターは1990年までにIBMパソコンと100%互換性を持つようになることが目標なのだな、

ということだけでした。

 

その代わりに時間は急速に過ぎていきました。

ベクター・グラフィック社の最終局面は醜いもので、

収益低下、莫大な借金、債務不履行などがつぎつぎに引き起こされていきました。

会社に対する融資の連帯保証人に対しても、経営陣は支払い不能に陥っていました。

同社は1985年に破産を申請、1986年に業務終了、持株会社はすべての資産を清算し、

操業から10年後の1987年、ベクター・グラフィックは企業として終焉を迎えたのです。

 

忘れ去られた歴史

実のところ、1982年以降、誰もベクターを救うことなどできませんでした。

IBMの巻き起こした巨大な波に乗らなかった企業は、

すべて同じ運命をたどったのです。

消費者向けパソコン企業のうち、生き延びて90年代を迎えたのは、

唯一、しっかりした独自のプラットフォームを備えたアップルだけです。

そのアップルさえも、当時はかろうじて、といった具合でした。

 

ベクターは台風の目となって、パソコン業界に足跡を残しました。

ビジネスユーザー向けソフトウェアとサービスの基本形を作りあげるのに貢献し、

IBMも、パーソナル・コンピューターでの成功が、

ベクターによって保証されていたからこそ、模倣することもできたのです。

 

以降、パーソナル・コンピューターの歴史は、勝者によって書き換えられました。

生き残った企業だけが、業界の歴史の語り手となります。

そうして、その歴史は、シリコン・バレーの中心で2人のスティーブが、

IBMという邪悪な巨人と戦う、という物語に取って代わります。

この巨人のせいで、世界の他の地域の人々はもちろん、

南カリフォルニアからやってきたよそ者2人にさえ、入り込む余地はほとんどなかった、

という物語です。

 

現実はそのように整然としたものではありません。

ベクター崩壊前までに、3人の創業者は、他の企業に移っていました。

(キャロル・イーリーは1983年に、特に劇的な出来事もないまま退社しています。)

 

相変わらずローレ・ハープ・マクガヴァンは怖れを知らぬ女性でした。

彼女の次の事業は、使い捨て器具の開発でした。

それを使用すれば、女性が立ったまま用が足せる、というものです。

 

「ちょっと時代の先を行きすぎていたのです」

と、ローレは相変わらず控えめさとは縁のないコメントを残しています。

 

2015年の現在でも、テクノロジー業界におけるジェンダー・ギャップをめぐるニュースは、

依然として見出しを飾っています。

このギャップは、男性が支配する業界が根本的に抱える罪である、

と結論づけるのは簡単です。

 

けれどもそう言ってしまうと、カリフォルニアの2人の女性が、

会社をどのように経営していたか、私たちは忘れてしまうことになります。

 

その会社は、商品の美的な面に注意を向けることや、

企業の垂直統合(ベクターは社内にソフトウェア開発部門を備えていました)、

研修ネットワークの構築、パッケージ化されたPCソリューションの提供、

従業員を家族の延長として接することなど、

影響力の大きな実践の先駆けとなっていったのです。

ベクターが草分けとなったものの多くは、

現在のテクノロジー業界のDNAにも受け継がれています。

 

 

ベクターのおかげで、パーソナル・コンピューターの起源は、

テクノロジーの世界における女性の物語とは、切り離せないものとなりました。

パーソナル・コンピューターは、その誕生の時からずっと、

私たちみんなのものだったのです。

 

 

 

著者:ベンジ・エドワーズ(フリーランス・ジャーナリスト)


元記事:http://bit.ly/1JffOqC

(翻訳:服部聡子)

 

 

 

 

退屈していた2人の主婦が起こしたPC革命 前編

 

 

1977年4月、スティーブ・ジョブスとスティーブ・ウォズニアックがサンフランシスコで開催されたファースト・ウェストコースト・コンピューター・カンファレンスでアップル社最初のヒット商品となるアップルⅡを発表しました。

その会場からそう遠くない南カリフォルニアのある街で、二人の女性が革新的なコンピューターの発売に向けて忙殺されていたことは、あまり知られていません。

ウェストレイク・ビレッジに住むローレ・ハープとキャロル・イーリーはローレの夫であるボブ・ハープにより設計されたベクター1を発表しました。パソコンの名前は、起ち上げたばかりの会社、ベクター・グラフィック社にちなみました。

ベクターとアップルがまだ小さく、新市場に参入しようとしていた当時は、どちらの企業が成功するか予測がつかないものでした。たとえばコンピューターの専門誌である『バイト』がコンピューター・カンファレンスのレポートの中で取り上げたのは、ベクターであって、その後、世界で最も重要な企業と呼ばれたアップルは、無視されていたのです。

1970年代後期、この分野ではベクター・グラフィックは、最も認知度の高いパソコンメーカーでした。アップル同様、最初のコンピューター会社として世に知られ、アップル同様、デザインに焦点を置くことによって、他とは一線を画していたのです。

けれども、アップルと異なっていたのは、ベクターは姿を消してしまったという点です。1981年後期のIBMによるパソコンのリリースはあらゆる状況を一変させ、ほとんどの企業は市場から撤退し、私たちの記憶からは消えて行きました。

けれども、ベクター・トリオが、ゼロから成功へと上りつめ、そこから再び崩壊していった物語は、語り継がれる価値のあるものです。

「家の中でじっとしていられない」

 伝統的に、保守的な人は郊外に住むと言われています。ところが’70年代のカリフォルニアの郊外は、起業家的な野心あふれる人々の、るつぼとなっていたのです。

スティーブ・ジョブスがカリフォルニア州ロス・アルトス郊外にある家のガレージでアップルの設計をしていたことは有名な話です。

時を同じくして、その聖地から500キロほど南のウェストレイク・ビレッジの一家でも、同じような起業家精神が生まれようとしていました。

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▲キャロリ・イーリー(左)とローレ・ハープ

 

70年代初頭に引っ越してきたハープ家は、典型的な郊外族でした。

父親はオフィスで1日働いて、母親は家を守り、小学生になる2人の娘がいる生活。

父であるロバート・ハープ博士はマリブにあるヒューズ研究室の上級研究員として働き、

ドイツから移って来たばかりのローレが家事をしていました。

 

ローレ・ランゲ=ヘーゲルマンが、初めてカリフォルニアを訪れたのは1966年のことです。

20才の彼女は、一人旅をしながら、親の干渉を逃れた自由を満喫しながら、

ここでなら何でもできるという気分を味わっていたのです。

「へその緒がもう一度切られたような気がしたんです」と彼女はふり返ります。

 

両親の希望に逆らって、ローレはアメリカに残ることを決心しました。

雑用をこなしながら、やがてカリフォルニア工科大学で教授を務めていたボブ・ハープと出会います。

結婚後は2人の子供を育てながら、カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校で人類学の学士を取得しました。

 

1975年、ローレは彼女の内なる衝動に気づき始めました。

 

子供が学校に行き、夫が大学で働く間、

自分は自分の才能をただ浪費するばかりだ、と感じたのです。

両親に反抗したように、彼女はこの状態にもあらがおうとしました。

「家にいることに耐えられなかったんです」

当時のことを、1983年のニューヨークタイムズの取材で彼女はこう語っています。

「頭がおかしくなりそうでした。みんな、こんな風に思ってるんです。

あら、あの人って変ね、ブリッジの集まりにも来ないし、ネイルサロンにも行かないし、って」

 

やがてローレ・ハープは、近所に住んでいたキャロル・イーリーと出会い、

自分の子供と同じクラスのお母さんが、自分と同じ考えを持っていたことを知ります。

ローレと同じく、キャロルもまた、家事以外の道を求めていたのです。

「私たちは主婦であることにうんざりしていました」と、イーリーは当時をふり返ります。

「何か別の者になろうとしていたんです」

数年前まで、キャロルにはメリル・リンチなど、東海岸の大手投資企業で働いていたキャリアがあり、

仕事に戻りたくてうずうずしていたのです。

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▲仕事中のキャロル・イーリー

 

退屈な日々を過ごしていた主婦2人が手を組み、何かもっと生産的なことをしなくては、

と決意を固めました。

新規ビジネスのアイデアを出し合いながら、

2人とも、旅行好きだったことから、最初に思いついたのは旅行代理店でした。

ところが経営資格取得には時間がかかり過ぎ、利益の見込みも薄かったため

旅行代理店の案は、断念するしかありませんでした。

 

「RAMボードってなに?」

 

2人の下に、70年代ならではのチャンスが舞い込みました。

典型的な「小型コンピューター」が、冷蔵庫ほどの大きさで、何万ドルもした時代のことです。

ニューメキシコ州アルバカーキのエド・ロバーツというエンジニアが、

当時としては、驚異的に小さいマイクロプロセッサーを利用してパソコンを制作したのです。

そのおかげで、電子愛好家でも、パソコンを組み立てることができるようになりました。

 

それがアルテア8800です。

この機種は1975年1月に機械系ファン層を広く獲得していた

『ポピュラー・エレクトロニクス』誌によって最初に取り上げられました。

ロバーツはMITSという自分の企業を経営し、

パーソナル・コンピューターのパイオニア企業として革命を起こしましたのです。

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▲PCビジネスを生み出した雑誌

 

当時、多くの電子工学マニアが、この記事を読み、アルテアのパソコンキットを注文しましたが、

そのうちの1人がボブ・ハープでした。

配達されたメモリー増設ボードの設計は、ひどいものでした。

ボブは当時のエンジニアの大多数がそうであったように、

返品する代わりに、それを作り直したのです。

 

子供の時、電気の通わない農場に引っ越したボブは、電子機器の実験を始めるようになりました。

引っ越す前の家で聞いていたラジオ番組を、何とかしてもう一度聞こうと、

電池式の鉱石ラジオを自分で組み立てようとしました。

なかなか上手く行きませんでしたが、結果的に科学への興味は高まり、

やがて彼はスタンフォード大学、そしてMITで物理学の学位を取るまでになったのです。

 

ボブの最初のコンピューター・エレクトロニクス・プロジェクトは、

アルテアの8キロバイトのスタティックメモリー増設ボードとして完成しました。

そのメモリー増設ボードはアルテアの100-pinの拡張バスに接続するもので、

後に業界でS-100と命名されるようになります。

アルテアの周囲にはメモリーやプラグイン・ICUなど、さまざまな開発を行う会社が、

数多く集まるようになっていました。

その中には、ビル・ゲイツとポール・アレンによって設立された、

当時はマイクロ-ソフトと名乗っていた会社の姿もあります。

 

ボブ・ハープのメモリー・ボードは優れており、彼も商品として成功するだろうと考えていました。

ところが、それを商品化するための時間も資金も足りず、

計画の実行は約1年先となってしまいます。

1976年、彼の妻とその友人のイーリーがビジネスを始めようとしていたとき、

ボブは彼女たちに、自分のアルテア用のメモリー増設ボードを、商品として提案したのです。

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▲ ボブ・ハープ(1981)

 

わくわくするようなチャンスだ、とローレは思いました。

ところが、コンピューターの分野は2人にとってまったく未知の領域でした

(1976当初はほとんどの人がそうだったのですが)。

ローレは当時、キャロルに対し、このように言ったのを覚えています。

「キャロル、コンピューター会社を始めるのはどうかしら?

8Kバイトの RAMボードがあるんだけど」

「RAMボードってなに?」

 

ローレとキャロルが誕生したばかりのパーソナル・コンピューターになじめるように、

ボブ・ハープは彼女たちを地元のコンピューター展示会に連れて行きました。

そこで3人は、質の低い、雑に組み立てられた製品を、金に糸目をつけず、

熱狂的に買おうとしている人の群れを目の当たりにます。

 

「完全に新しい産業だったんです」とボブは当時をふり返ります。

「今の時代、製品の質は格段に上がり、製品はどれも良くできています。

そこに来るまで、何年もかかったのです。

当時はクオリティの競争も本当に低いものでした」

 

ローレとキャロルは、自分たちが実際に商品を持っている、ということが、

人々に強くアピールすると確信を持ちました。

しっかりした技術的裏付けと商品のスタイル、美的な観点から見て、

自分たちのRAMボードが、他の商品を凌駕することがわかったのです。

 

さらには、回路基板上の他部品とクラッシュすることのない

特殊コンデンサーの開発にも目を向けました。

1982年、『インフォワールド誌』で

「他の人は私たちのことを何と言っていたのでしょうね。

2人の女が色の付いたコンデンサーを探しているぞ、とか?」

とイーリーはコメントしています。

 

2人は新しい会社の設立に向けて、動き始めました。

1976年8月に登録された会社は、ボブの提案を受けて決めました。

その名もベクター・グラフィック。

ボブは自分が設計しようと考えていたビデオ・ボードに、

その名をつけようと考えていたのです。

ボブがその計画を実行することはありませんでしたが、その名前は残りました。

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社名を考えたり、商品を作りだしたのはボブでしたが、

彼はヒューズ研究室の職を辞めようとはしませんでした。

そうして、ローレとキャロルに会社の経営を任せたのです

(ただし、顧客からの難しい質問が出た場合は、

研究室のボブに電話をして聞いていました)。

ローレ・ハープが会社のCEOとなり、

イーリーがマーケティングと外部との

コミュニケーションの管理者となりました。

ボブは1977年の7月までは、会社に参加せず、

以降はフルタイムの会長になりました。

 

ローレ・ハープとキャロル・イーリーは

6,000ドルの資本金でベクターを起業。

後に、ボブの開発したRAMボードキットを

通販でも販売するアイデアも実現させ、

全国誌で広告を出しました。

現金着払い、返品無しというやり方で当初の収益は順調でした。

 

▲最初期のベクターの広告。コンピューター会社が「マザー」「ベビー」という言葉を使ったのは初めてだった。

 

ローレとキャロルはハープ家の予備のベッドルームに机を2台置き、

一時は家族全員で工場で作られているコンピューターボードの製造を

手伝っていた時期もありました。

1982年に書かれた『タイム』には、一家がダイニングテーブルでパソコンを組み立て、

シャワー室で部品を包装しているというニュースが取り上げられています。

 

部品供給業者がやってきた時は、ローレは最初のうち、

2人が真剣にビジネスに取り組んでいると説得するのに苦労させられました。

公式なオフィスがないために、ミーティングは家の外で可能な場所ならどこででも使いました。

(ベクターはその後、元百貨店であった建物をオフィスに構えるほど成長しました)。

半導体チップ・メーカーのAMD社は、メモリーチップに天文学的な値段を要求しましたが、

結局、フェアーチャイルド社ともっと良い条件で契約し、

ベクターのメモリーもしばらくそこの供給を受けていました。

 

「システムを全てつくろう」

 

ベクターのメモリー・ボードは、大きな成功を収めることになりました。

とはいえ、業界そのものが非常に小さく、その水準での「成功」ではありますが、

それでも売上は急速に伸びました。

 

間もなくボブはS-100バス用ボードを設計、その中にはPROMボードもありました。

このため、当時アルテアの標準であったフロントパネルスイッチを使って、

ブートアップ・プログラムを省略することができるようになりました。

続けて、テキストベースビデオ、別のメモリーボード、シリアルI/Oボード、

電源装置、他ボードをまとめるマザーボードなどを作りました。

ファンは彼の創り出す機械に魅了され、どの製品も良く売れ、

次の目標も明確になっていたのです。

ボブは当時のことを「個々のメモリーボードに良い市場があったので、

システム全体をやってみることにしたんだ」と当時を振り返ります。

 

その結果誕生した製品が1977年に発売されたベクター1です。

緑、またはオレンジ(当時は「赤褐色」と呼ばれていました)の箱に入れて出荷されました。

多くの会社が、コンピューターをどんな状態で発送するかなど、

考えたこともないような時代に

(そもそもPCが箱に入れて出荷されること自体の萌芽期だったのです)

ローレとキャロルは、視覚的な美しさを強調して、購入者に箱の色を選択させたのです。

オレンジ色の回路基板にマッチするように、オレンジの箱にしようとした試みは、

オーダーした箱のうち、50がピンクとなってしまったので、失敗してしまったのですが。

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▲「完璧なマイクロコンピューター」ベクター1

 

トグルスイッチが複雑に並んでいた当時、

フロントパネルボタンが二つあるだけの外見(電源ボタンとリセットボタン)は、

明らかに使いやすさを象徴していました。

後にこの機種にフロッピーディスクを搭載したモデル、ベクター1+が作られ、

それはやがて業界の主流モデルになりました。

インテル 8080A を基盤としたベクター1 は、

フルセットで849ドル(インフレを考慮すると、今日の価格にして3,288ドル)、

または 619ドルで組み立て用のキットとして売り出されたのです。

 

「アップルⅡはおもちゃにしか見えなかった」

 

ベクター1が発売された当時、パーソナル・コンピューターが販売されていたのは、

個人商店や小規模チェーンに限られていました。

ベクター1を市場に出すため、ローレとキャロルはディーラーを探し、

連絡を取ってさまざまな関係を築いていきました。

そうして数年のうちに、国際的なディーラー・ネットワークを創りあげたのです。

小売り業者がベクターの商品を、地元の顧客に売ります。

そこですぐにベクターは、顧客サポート研修と、

資格制度をディーラーに課し、彼らを訓練し始めました。

このネットワークから生まれた忠誠心は、

後の企業間競争期においてベクター社の最後の切り札となります。

 

1977年4月、ベクター1とアップルⅡが

ウェストコースト・コンピューターフェアにて同時に発表されました。

同じ地域に企業がありながら取引がない2つの企業です。

ベクターはS-100の成熟した市場における先進的な顧客をターゲットにする一方、

アップルは開発中のシステムを一般的客層に広めようという段階でした。

ベクターにとってアップルはまだ脅威ではなかったのです。

 

「私たちの目には、アップルⅡはおもちゃとしか映りませんでした。

私たちが当時追い求めていたのは、ビジネス市場で、

パーソナル・コンピューターには重きを置いてなかったのです」

とローレは当時のことを語っています。

ボブ・ハープもローレには賛成しつつも、

内心ではウォズニアックのデザインを高く評価していました。

また、キャロル・イーリーもアップルⅡの洗練されたデザインと魅力には

羨望の眼差しを注いでいたのです。

 

 

次回へ続く

著者:ベンジ・エドワーズ


元記事:http://bit.ly/1JffOqC

(翻訳:横手祐樹 服部聡子)

 

男性は本当に女性より起業家に向いているのか? 

 

男性は本当に女性より起業家に向いているのでしょうか?

多くの人は、たとえ口には出さなくても、その問いにはイエス、と答えるでしょう。

 

そのことは、3つの研究者チームによってなされた学問的研究からも、明らかにされています。

男性の方が女性より良い起業家となる、という固定観念は、

起業家に対する根強いジェンダー・ギャップが未だ縮まっていないことを示すものであり、

そのギャップを埋めるための政策が重要であることを示唆しているのです。

 

実験1:起業家として、能力が高いのは?

第1の研究は、カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校の社会学者サラ・テボーがおこなった、

3つの無作為実験です(2つはアメリカで、1つはイギリスで行われました)。

実験は、起業家としての能力と、新しいベンチャー・アイデアに対して、

性別の違いがどのような影響を及ぼしているかを調べるものでした。

被験者の学生たちは、新しいベンチャー企業の概要を聞いた上で、

起業家の能力と、ベンチャーのアイデアを評価するように求められます。

その概要には、男性と女性の名前がランダムにつけられており、

それ以外はまったく同一のものでした。

その結果は、アメリカ、イギリス双方とも、

また、ありふれたベンチャー企業と革新的なベンチャー企業の概要のいずれも、

学生の多くは、男性起業家のアイデアと能力に高い評価を下しました。

 

実験2: 出資したい起業家は?

第2の研究では、ハーバード大学、ペンシルベニア大学、マサチューセッツ工科大学の研究者たちが、

2種類の実験を行いました。

1つ目の実験では、521人の成人に、2種類のビデオを見せます。

大学を基盤とした事業計画のコンペでの、スタートアップによる売り込み、という設定です。

ナレーションが男性の声と女性の声にランダムに設定されている以外は、同一の内容でした。

別の実験では、194人の被験者が、男性起業家か、女性起業家か、

ランダムに設定されたビデオを1本だけ見ました。

どちらの実験でも、男性か女性かを除けば同一の売り込みだったにもかかわらず、

被験者たちは圧倒的に男性の起業家に投資を希望しました。

KvK Creative Entrepreneurs Gathering at Strijp-S

実験3: 起業をあきらめた方がいいベンチャーは?

第3の研究は、私とケース・ウェスタン・リザーブ大学の私の同僚、及びアイントホーフェン工科大学によるものです。

私たちは特許出願用の発明の開示に

男性または女性の名前と写真をランダムに割り当て、

アメリカの大学の技術特許審査官に査定してもらいました。

発明を活用してベンチャー企業を設立しようとする出願者に、

会社を始めることをやめるよう説得するか否かを評価してもらったのです。

そこで明らかになったのは、同一の発明に対して、

審査官が「ベンチャー企業の立ち上げを思いとどまるよう説得する」と評価したのは、

女性のケースが男性のものより明らかに多かったことでした。

 

これら3つの研究、3つの異なる観点からの起業家に対する考察と、

6つの異なる実験を通して言えるのは、

女性であることは、起業の上で不利に働く、ということです。

女性の名前、写真、声は、投資を得る確率は低くなり、

起業家の能力やベンチャーのアイデアに対しては低く評価され、

重要な利害関係者からは、起業を思いとどまるよう説得される可能性が高いことがわかりました。

これらの研究はすべて無作為化された実験であり、

否定的な評価は、起業家の性別という点にのみ起因しています。

 

なぜ女性の方が否定的な評価となったのでしょうか。

これは、男性の女性に対する偏見というだけではありません。

 

3つの研究はいずれも、評価を下した被験者は、男性と女性から構成されており、

男性と女性の評価にも、差は見られなかったからです。

同時にこれは年齢が上の世代に見られる

ステレオタイプのものの見方による結果ともいえません。

最初の研究では、すべての被験者は若い世代でした。

第2、第3の研究においては、被験者の年齢によって特定の評価パターンは見られませんでした。

8 marzo 2009 - viva le donne

3つの研究はいずれも、人々が起業家とはどのような外見をしているか、ということと、

起業家とは男性である、という固定観念を持っていることを示唆しています。

意識的か無意識的かはともかく、この観念を抱いているために、

男性も女性も、女性起業家よりも男性起業家の方を高く評価するのです。

結局のところ、ほとんどの起業家が男性だから、

人々がこのような思い込みを持つようになったのでしょうか。

それとも、人々がこのような思い込みを持っているから、

ほとんどの起業家が男性、ということになったのでしょうか?

 

いずれにせよ、こうした研究が示唆するのは、起業家に対する男女の不平等は、

政策によっても根絶することはきわめてむずかしいだろう、ということです。

 

 

筆者:スコット・シェイン (ケース・ウェスタン・リザーブ大学教授)


元記事:http://www.entrepreneur.com/article/246815

(翻訳:服部聡子)

 

経営に男も女も関係ないって本当ですか?

あるアナウンサーのブログにありました。

女性の少子化対策として、女性の社会進出を促進なんて馬鹿げている。
もし本当に少子化が困るなら、 専業主婦か 専業主夫を増やすべし。
女性の登用は少子化には逆効果だ。 そもそも、「経営者になれば男も女も関係ない。結果が全てだ」  

本当ですか???

たしかに、経営者ともなれば、経営者の実力のみが 勝負の世界。スポーツも同じ。
では、伺いますけども、経営者の男女比をお調べになったことがありますか?


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帝国データバンクの2014年「全国社長分析」(約117.5万社のデータを分析)の女性社長比率(全社長数に占める女性社長の比率)は、7.4%。うち、過半数が同族継承、つまり身内からの引き継ぎ。創業社長は、女性社長のうちの34.7%にすぎません。しかも、日本政策金融公庫2013年レポートでは、中小企業の起業社長比率は18.0%。20人以上の会社・事業所の経営者は9.5%。ただし、飲食店や個人を相手にしたサービス業が多い、とのこと。起業とは言っても、カフェやエステ、ネイルサロンなど、小規模事業主が多いことは想像に難くないです。

さらには、一部上場企業における女性経営者となると、2010年で29社で、親や配偶者から引き継いだ場合が多くなります。
そもそも、100人に7人の狭き門をくぐり抜け、社長になっている女性が、いかに、男性に比して優秀か、私は、こっそりと主張したいのです。

一方、女性が子どもを産まないことを、「けしからん」とする風潮もいかがかとは思っています。
たしかに、少子高齢社会は、国家の消滅をも意味します。呑気に構えているわけにはいかないですが、だからと言って、子どもの数が増えればそれで良いのでしょうか。

それとも、国家として、安心して年を重ね、死に向きあえる幸せな社会を目指すのが優先課題でしょうか。

大国なのか、小さき幸福国なのか、そもそもの目的論がない中で、少子化論を語ってもらっても、という気はするのです。

国としては、低所得者層がガンガンと子どもを作っても、税金を払えない層が増えるだけでは、意味ないはずです。だから、単純に専業主婦や専業主夫が増えても、まったくもって、解決にはならないはずなんです。

 

2002年に『キャリアダウンのすすめ』を発刊いただいた時も、世の中は、専業主婦不要論が大きな声になっていて(そもそも、個人の生き方を国が語るのが、嫌いですが)専業主婦の肩身の狭さを身近で感じていましたし、働きたくても働けない彼女たちの涙を知っているだけに、猛烈な怒りを感じました。その「怒り」が、100回以上の企画書の書き直しの原動力となり、何十社へもの企画持ち込み、そして出版への執念となったのです。

言いたいことは、つまり、
「女の問題は、女に聞いてください!!」ということ。

しかも、声の大きい(発言力を持つ)、女性性をないがしろにする女性に聞くのもやめてほしいのです。

わかったような調子で、女性の代弁者のようなことを男性が、つらつらつらとしゃべるのはもうやめませんか。女たちが笑顔の陰でどんな思いをしているか想像していただきたいのです。

 

やはり、まだまだ、この社会は、男性社会なのです。女性の時代になるには、育児を安心してできる社会が必要です。そして、復帰できる社会が。

 

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島藤真澄 (ShimaFuji IEM代表)

フォーブス誌選出全米5大ビジネスコーチ,ジェイ・エイブラハムの東アジアディレクター(交渉代理人)。様々な案件のプロデュースや海外とのビジネスマネジメントを行う。

ジェイの『限界はあなたの頭の中にしかない』PHP研究所を企画・翻訳。