退屈していた2人の主婦が起こしたPC革命 後編

 

前編から続く

1970年代、パソコン市場の成長は急激なもので、

デザインや価格が週ごとに変わっていくほどでした。

 

2年間のうちに、パソコンとは、コンピューターマニアがキットを購入して自作するようなものから、

完成された1つのシステムとして製造されるようなものへと変貌を遂げたのです。

大きな部品が沢山ついているボード、重たい金属のフレーム、大きな電源装置、

高価な接続部品などを搭載したS-100ベースのシステムは、

シンプルな設計の家庭用パソコンに太刀打ちできなくなって行きました。

 

TRS-80やコモドールPETなどの手頃な価格のマシンが低価格市場を独占するようになり、

S-100を販売するベクターや、クロメンコ、IMSAIなどの企業は高価格市場にシフトし、

S-100のカスタム機能の可能性に魅力を感じるコアなビジネス顧客層をターゲットにするようになったのです。

 

S-100などの旧型コンピューターと、新型のパソコンの価格は、驚くほど隔たっていました。

1979年、フロッピーディスクを搭載したアップルⅡ+は、

家庭用パソコンの高価格市場と、小企業用の低価格市場向けに、基本モデルのみの構成で、

およそ2,000ドルで売り出されました。

 

一方クロメンコやベクターS-100バス・システムは、

RAMやハードディスクなどの付属品によって差はあるものの、

およそ4,000ドルから20,000ドルの価格帯で販売されていました。

インフレのことを考慮に入れなかったとしても、

高価格市場向けの最新コンピューターシステムが、

メルセデスベンツとさほど変わらない価格にまで急騰していたのです。

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▲「社会の進歩のためのコンピューター」を高らかに謳うベクターの広告

 

低価格パソコンの機能が上昇する中で、

ベクターはアップルがじりじりと追いついてくるのを感じていました。

1979年にビジカルクが最初の表計算ソフトを開発したことにより、

多くの企業がコンピューターの購入を検討し始めました―

―ところが、ビジカルクはアップルⅡでしか動かなかったのです。

 

「当時、高価格市場でも低価格市場でも、最上級品やシステム、

最低価格、個人向け、あらゆる部門でアップルとの熾烈な競争が巻き起こっていたのです」

と当時の状況をイーリーはふり返ります。

 

前へ、上へ

 

‘70年代後半、中小企業をターゲットにしたベクターの売上は急上昇し、

生産性ソフトウェアと、完全なターンキー・システムを搭載したマシンを、

市場に続々と投入していきました。

 

一方マスコミは、数百万ドルの会社を創りあげた

カリフォルニアの主婦の物語に熱狂していきました。

ついにローレ・ハープは複数の雑誌の表紙を飾るまでになったのです。

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▲Incマガジンの表紙を飾ったローレ・ハープ

 

ベクターは一躍、注目の的になりました。

パーソナル・コンピューター・ブランドの最初期の1企業として、

無料の業界紙に登場したベクターも、いまや主流の雑誌を飾るまでになりました。

 

後年、評論家として名を馳せるジョン・C・ドボラックは、

当時『インフォワールド』でこのように述べています。

 

「ビル・ゴドブーやジョージ・モロー、クロメンコやS-100コンピューターが、

コンピューター専門誌の『バイト』に載っていたのに対し、

ベクター・グラフィックの広告は、『ビジネス・ウィーク』に掲載され、

ローレ・ハープが『インク』(1981年3月号:中小企業向けビジネス雑誌)の表紙を飾るようになっていた。」

 

業界では、ローレとキャロルは「緑と白の娘たち」として知られるようになっていました。

トレードショーや会議などでは、企業カラーの緑と白の服を着ていたからです。

ローレはマスコミの寵児となりました。

業界の著名人であるビル・ゲイツや、

のちにオズボーン・コンピューター社を設立するアダム・オズボーンとの交流を楽しんだのです。

80年代初頭には、カリフォルニア州知事のジェリー・ブラウンや、

カリフォルニア州技術者代表団の一員だったスティーブ・ジョブスと共に、

パリのパーティに参加するまでになったのです。

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▲1981年のパーティでのローレとアダム・オズボーン

 

とはいえ、ローレはテクノ・セレブを気取ったわけではありません。

自分の分野でのビジネスの専門家となろうとしたのです。

 

ベクターが不運に見舞われ始めた後に発表された1983年のニューヨーク・タイムズの記事の中で、

マイケル・マローンはこのように述べています。

 

「ローレ・ハープがただの経営者ではなかったことは、

すぐに明らかになっていた。

彼女は鋭い感覚で、市場のニーズと可能性を感じ取り、

会社を導いたのである。」

 

最高責任者として、ローレは倹約に努め、利益を生むキャッシュフローを創り、

借金を回避することを誇りとしていました。

個人としてのローレは、2人の幼い娘の母親という役割が、

自分の大きなビジネス資産だった、と言います。

従業員と自分の家族の幸せを大切にする、という母性本能が、

仕事の面でも十分に活かされたのです。

1980年代初頭にベクターで技術者として働いていたデニス・ウィンゴは、

「ベクターは仲の良い家族のようでした。

このことはCEOとして会社を切り盛りしていたローレによるところが少なくないと思います」

とコメントしています。

 

ウィンゴによれば、ローレは人間中心主義の経営スタイルで知られるようになっていった、と言います。

学歴や性別より、成果やスキルによる昇進という実力主義で、会社を経営していったのです。

1981年、ローレはインタビューで、ベクターはなぜ女性をもっと雇用しないのか? と問われ、

仕事に適した人材なら誰でも雇用している、性別は無関係です、と答えています。

 

今日までローレは、業界において、男性から特別な抵抗は受けたことがない、と言っています。

彼女がアイアン・メイデン(鉄の処女)ならぬ「アイス・メイデン」と評されたときも、

彼女は自分が前進し、成果を上げてきたことのあらわれと受け取りました。

 

キャロル・イーリーがウォール街で働いていた頃は、

女性が昇進することは、ほとんどありませんでした。

ベクターでそのような問題が起こらなかったのは、

キャロルとローレが2人とも女性であり、公平なやり方で運営される企業文化が

はっきりしていたからだろう、とキャロルは語っています。

 

一方で、ボブ・ハープは、メディアはキャロルとローレが女性であることに対して、

過剰に注目していると感じるようになっていました。

実際のところ、会社を今ある状態にしたのは彼だったし、

ボブのハードウェアの設計がなければ、不可能でした

(現在では彼も、ローレの粘り強さと統率力を認めていますが)。

 

テクノロジー企業の3大部門をローレ、キャロル、ボブは担っていた

プロモーション部門のトップとしてキャロルは、

女性がテクノロジー企業の経営者を務めることが大きな訴求力を持つことを理解していたために、

ローレが企業の顔として注目を集め、自分が脇へ退くことに、まったく問題を感じていませんでした。

 

「自然にそうなったのです。人に会うのはローレでした。

ローレがいつも前面に立ったのです」とキャロルは言います。

 

しかし、ボブにとっては女性の代表にばかり注目が集まることに、

ボブは次第にいらだちを隠せなくなってきました。

マスコミが技術系の質問をしたときは、キャロルはかならず質疑にボブを加えていた、

と当時をふり返ります

(当時の記事は確かにそれを裏づけていますが、

ボブがローレほど脚光を浴びることは、決してありませんでした)。

 

現在からすれば、ベクター初期の成功が、

チームワークと、創設者らが、それぞれの才能を発揮し、

それを結集したことによるものであることは明らかです。

ローレ、キャロル、ボブは、テクノロジー企業の主要3部門、

経営、マーケティング、エンジニアリングを、それぞれが代表していたのです。

テクノロジー企業ばかりでなく、どんな企業であっても、

創業時には最強のメンバーだったと言えるでしょう。

 

「私たち3人は、良いチームでした。グッド・トリオだったのです」

とキャロルは言います。

 

けれども、大きな成功は大きなプレッシャーをも引き起こします。

1980年、パートナーシップにはひびが入り始めたのです。

企業経営のストレスは、ボブとローレの結婚生活の大きな負担となり、

やがてふたりは離婚の道を選びます。

そこで生じた不協和音は、会社全体に波及することになりました。

(『タイム』はボブの言葉を引用しています。

「自我と自我のぶつかり合いでした。

彼女は自分のやり方を通そうとし、私は別のやり方を主張したのです」)

 

ローレは、離婚しても会社にはほとんど影響はないだろう、と考えていたのですが、

社長とチーフ・プロダクトデザイナーの亀裂は、

会社の苦境をお膳立てすることになってしまいました。

問題を起こす時期も悪かったのです。

ベクター社の厳しい日々は、すぐ目の前に迫っていました。

 

眠れる巨人が目を覚ます

 

1980年前後、IBMは既存のコンピューター・ハードウェアを、

IBMブランドのパーソナル・コンピューターとして提供してもよい、

というライセンス供与をちらつかせながら、マイクロコンピューター業界に参入してきました。

 

IBMは、メインフレーム・コンピューター・メーカーの筆頭としての影響力を利用しつつ、

小規模パソコン企業の多くに「キモノの前を開いて」(当時の業界用語)、

彼らのテクノロジーの本質と、PC事業が実際、どれほど儲かるかを明らかにしました。

さらに当時、主要なソフトウェア開発会社だったデジタル・リサーチ

(実はあまり真剣な打ち合わせではなかった)や、

マイクロソフト(こちらとは真剣な打ち合わせを行った)と競技したことは有名な話です。

 

「私たちには1年しか残されていません。彼らが参入したからには、世界は変わるでしょう」

 

ベクターも1980年にIBMの訪問を受けていました。

IBMの新規パーソナル・コンピューター・プロジェクトのリーダーであるドン・エストリッジは、

7人の同僚と共に、カリフォルニア州サウザンドオークスにあるベクター本社を訪れました。

ローレはその時のことを思い返します。

 

「私はドンを見て言ったんです。

『冗談でしょ?あなた方は収益が250億ドルもある企業でしょう。

私たちは2,500万ドルがせいぜいよ。それが私たちとOEM契約を結ぼうだなんて』って」

 

結局、契約までには至りませんでしたが、面談は丁重な言葉を交わして終わり、

IBMはベクター3システムを評価するために持ち帰りました。

 

「私はそのあとすぐ、ミーティングを招集しましてこう言ったんです。

『私たちには1年しか残されていません。

彼らが参入したからには、世界は変わるでしょう』」

とローレはふり返ります。

 

マーケティングの観点から、キャロル・イーリーはIBMの参入を恐れていました。

「どうしようもなく怖くなりました。

IBMは私たちのシステムを買って、新しい開発研究室のあるボカラトンに持って行ったんです。

私たちは思いました。『しばらく様子を見るしかなさそうね』って」

 

IBMが小規模システム事業に参入してくる明確な徴候を目の当たりにして、

ローレは残された時間がわずかであることを知りました。

未だチャンスがある内に、株式を公開する計画を立てたのです。

 

結局IBMは、ベクターのハードウェアを使用しませんでしたが

(また、ベクターの社員が怖れたように、コピーすることもありませんでしたが)、

IBMが行ったことは、さらに破壊的な打撃をベクターに与えることになりました。

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▲IBMが初めてPCを発売した1981年の広告

 

IBMはベクターがビジネスソフトウェア共有元と築きあげた、深い関係を調査しました。

その中にはピーチツリー・ソフトウェアなどの

人気のある会計パッケージソフト・メーカーなども含まれます。

そうして発売前に、IBMは密かにそうしたソフト・ウェア供給元と契約を結び、

IBMのパソコンが最初からそうしたアプリケーションを使用できるようにしたのです。

これは中小企業向けPC市場においてベクターが築いてきた、

ソフトウェア主導による優位性を、著しく損なうものとなりました。

 

パーソナル・コンピューティングの、将来における戦いが、

共有化されたプラットフォーム上のソフトを巡る戦いになるのかどうか、

当時、業界では誰にもわかってはいませんでした。

しかし、ボブ・ハープは強い予感を抱いていたのです。

彼は、IBMのパソコンは、ベクター社の存続を脅かすものだと見て取りました。

 

「IBMがシステムのアーキテクチャでソフトウェアを動かそうとしていることは明らかでした」

とボブは言います。

「生き残ろうと思えば、IBMと互換性を持つしかありませんでした」

 

ボブはベクターの取締役会に対して、

IBMパソコンと互換性のあるマシンを販売しなければならない、

と主張しましたが、ローレと他の重役から反対されました。

 

ベクターから見れば、IBM互換機という選択肢は、およそ意味の通らないものでした。

新しい、未確認のプラットフォームに急遽転換などすれば、

過去5年間にわたって成功を証明してきたCP/Mベースのシステムを捨てることによって、

顧客との関係を悪くすることに他なりません。

 

パソコンの互換性をめぐる言い争いは、ボブの不満をさらに募らせることになりました。

まもなく他人となる妻の下で働くことにも嫌気がさしており、

今や企業の先行きにも暗雲がたちこめていました。

彼はベクターの取締役に当てつけで、就業時間中に関係のないプロジェクトに取り組むようになっていました。

 

「私はここを去らなければならない、と感じていました。

新しい互換性のあるパソコンを開発しなければ、と」

とボブは言います。

 

ベクターの取締役会は彼の意志を受け入れ、1981年にボブを解雇しました。

翌年、ボブはIBMのクローンPCを初めて開発したコロナ・データ・システムズを設立します。

ベクターにとっては、1976年以来、

ハードウェアのほとんどすべてを手がけてきた技術者を失うことは、

言葉に尽くせぬほどの打撃となったのでした。

 

しかし1981年は悪いことばかりではありませんでした。

その年の初めにベクターは株式を公開する準備をし、

ローレは従業員すべてに売上の成果として、毎年100株ずつ交付することにしたのです。

 

「株式引受人は憤慨していました。」とローレは当時のことを思い出します。

「彼らは言ったんです。『我々の株は、経営のためのものだ』って」

 

ローレの頭の中では、組み立てラインのもっとも低賃金の従業員であっても、

会社のあらゆる人は等しく重要な一員でした。

彼がネジをなくしたり、ミスをしたりすれば、

会社全体でその責めを負うべきだと考えていたのです。

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▲1982年ベクター社の年次報告の表紙

 

言うまでもなく、このことは社内では喜んで迎えられました。

10月の株式公開時には、創設者は最終的に1人あたり3000,000ドル以上を得、

1株13ドルで1000,000株を提供することになったのです。

 

IBMの市場への参入は業界に誰の目にも明らかな影響を及ぼした

 

「ワクワクするようなことでした。本当にすばらしかった」

新規株式公開時のことを、ローレはこのように語っています。

こうして彼女の業績は頂点を迎えます。

彼女は女性としてニューヨーク証券取引所に初めて上場した企業創設者となったのです。

 

しかし、お祝いは長くは続きませんでした。

8月、IBMがパーソナル・コンピューター市場に参入し、業界を震撼させます。

これまでS-100を購入していた企業は、

IBMパソコンや、IBMのハードウェアとマイクロソフトのMS-DOSオペレーティングシステムと

互換性を持つマシンを買うようになったのです。

 

ベクターがデュアルプロセッサーによってIBMの脅威に対抗しようとしたのは、

2年後のことでした。

 

このベクター4は、これまでずっと使用してきたCP/Mを、

限定的なMS-DOS との互換性によってサポートするという、

IBMパソコンが市場を支配する将来への橋渡しを意図したものでした。

 

けれどもそれはあまりにささやかな反撃、遅すぎる反撃でした。

IBMパソコンとの互換性を退けた時点で、ベクターの運命は決まっていたのです。

ベクターはすでに終わっていたのです。

ただそれに気がついていなかっただけでした。

 

終焉のはじまり

 

1982年、ローレは技術誌業界の大物、パトリック・マクガヴァンと再婚しました。

彼は調査会社IDCの創設者であり、『コンピューターワールド』、

『インフォワールド』(のちに『PCワールド』、『マックワールド』『ゲームプロ』などの雑誌までも手がけた)

を発行する出版人でもありました。

 

そんな彼と新生活をスタートさせるにあたって、

ローレは自分の結婚生活にもっと時間を割かなくては、と考えるようになったのです。

 

同年6月には社長兼CEOの職を、ハネウェル社のベテラン、フレッド・スノウに譲り、

自分は会長職だけにとどまりました。

しかし、スノウの就任と同時に売上は下降線をたどり、

1983年5月、ベクターの取締役会は、ローレに社長兼CEOに戻るよう懇願します。

その結果ローレは、サンフランシスコの自宅から、

毎日往復1,300キロを通勤することになりました。

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▲それでもローレは一般誌の表紙を飾っていた

 

1983年になると、ベクターの経営は、沈みかけた船で、

なんとか目的地までたどりつこうとしているようなものになっていました。

中小企業が軒並みIBMパソコンに切り替わっていったために、売上は激減し始めます。

 

毎日の長距離通勤に疲れ、取締役会からも疎まれ始めたことで、

ローレは、もうたくさんだ、と思うようになりました。

ふたたび職を退いたのです―今度は永久に。

1984年のことでした。彼女は40才になっていました。

 

彼女がいなくなってから、ベクターは日増しに絶望的になっていきました。

会社の歳入は、ピーク時だった1981年の3,620万ドルから、

1984年には210万ドルまで落ち込んでいました。

ベクターの最終モデルのひとつ、ベクター SXは、

致命傷にバンドエイドを張って、会社を救おうとするようなものでした。

 

1983年の『インフォワールド』の記事は、

その4月に発売中のベクターSXについて、マーケティング・ディレクターのロン・サープが、

SXのIBM互換対応型フロッピー・ドライブは、

「IBMとの互換性に対して著しい進歩を遂げた」と根拠もなく断言しています。

 

このはっきりしない記事から推測できるのは、

ベクターは1990年までにIBMパソコンと100%互換性を持つようになることが目標なのだな、

ということだけでした。

 

その代わりに時間は急速に過ぎていきました。

ベクター・グラフィック社の最終局面は醜いもので、

収益低下、莫大な借金、債務不履行などがつぎつぎに引き起こされていきました。

会社に対する融資の連帯保証人に対しても、経営陣は支払い不能に陥っていました。

同社は1985年に破産を申請、1986年に業務終了、持株会社はすべての資産を清算し、

操業から10年後の1987年、ベクター・グラフィックは企業として終焉を迎えたのです。

 

忘れ去られた歴史

実のところ、1982年以降、誰もベクターを救うことなどできませんでした。

IBMの巻き起こした巨大な波に乗らなかった企業は、

すべて同じ運命をたどったのです。

消費者向けパソコン企業のうち、生き延びて90年代を迎えたのは、

唯一、しっかりした独自のプラットフォームを備えたアップルだけです。

そのアップルさえも、当時はかろうじて、といった具合でした。

 

ベクターは台風の目となって、パソコン業界に足跡を残しました。

ビジネスユーザー向けソフトウェアとサービスの基本形を作りあげるのに貢献し、

IBMも、パーソナル・コンピューターでの成功が、

ベクターによって保証されていたからこそ、模倣することもできたのです。

 

以降、パーソナル・コンピューターの歴史は、勝者によって書き換えられました。

生き残った企業だけが、業界の歴史の語り手となります。

そうして、その歴史は、シリコン・バレーの中心で2人のスティーブが、

IBMという邪悪な巨人と戦う、という物語に取って代わります。

この巨人のせいで、世界の他の地域の人々はもちろん、

南カリフォルニアからやってきたよそ者2人にさえ、入り込む余地はほとんどなかった、

という物語です。

 

現実はそのように整然としたものではありません。

ベクター崩壊前までに、3人の創業者は、他の企業に移っていました。

(キャロル・イーリーは1983年に、特に劇的な出来事もないまま退社しています。)

 

相変わらずローレ・ハープ・マクガヴァンは怖れを知らぬ女性でした。

彼女の次の事業は、使い捨て器具の開発でした。

それを使用すれば、女性が立ったまま用が足せる、というものです。

 

「ちょっと時代の先を行きすぎていたのです」

と、ローレは相変わらず控えめさとは縁のないコメントを残しています。

 

2015年の現在でも、テクノロジー業界におけるジェンダー・ギャップをめぐるニュースは、

依然として見出しを飾っています。

このギャップは、男性が支配する業界が根本的に抱える罪である、

と結論づけるのは簡単です。

 

けれどもそう言ってしまうと、カリフォルニアの2人の女性が、

会社をどのように経営していたか、私たちは忘れてしまうことになります。

 

その会社は、商品の美的な面に注意を向けることや、

企業の垂直統合(ベクターは社内にソフトウェア開発部門を備えていました)、

研修ネットワークの構築、パッケージ化されたPCソリューションの提供、

従業員を家族の延長として接することなど、

影響力の大きな実践の先駆けとなっていったのです。

ベクターが草分けとなったものの多くは、

現在のテクノロジー業界のDNAにも受け継がれています。

 

 

ベクターのおかげで、パーソナル・コンピューターの起源は、

テクノロジーの世界における女性の物語とは、切り離せないものとなりました。

パーソナル・コンピューターは、その誕生の時からずっと、

私たちみんなのものだったのです。

 

 

 

著者:ベンジ・エドワーズ(フリーランス・ジャーナリスト)


元記事:http://bit.ly/1JffOqC

(翻訳:服部聡子)