「プロセス」としての仕事
突然ですが皆さんは、自動車保険の対応に満足しておられますか?
と言ってもこれは、ある特定の保険会社を売り込むような話ではありませんのでご安心を。
あくまでジェイ・エイブラハム翻訳裏話です。
私の夫が昨年小さな交通事故に巻き込まれたとき、私は初めて保険会社とまともにやりとりをしました。
それまで知らなかったのですが(そしてどの保険会社でも同じかどうかはわからないのですが)事故に遭うと、「怪我に関する担当者」「自動車の損傷に関する担当者」など複数の担当者が付くことになり、私も3人の担当さんと連絡を取ることになりました。
最初になんとなく「私は○○担当です」という紹介を受けたような気はするものの、気が動転しているし、保険の仕組みもよくわからないし、私はしばしばそれぞれの担当さんに、関係のないことを質問したりしたようでした。
そのたびに「いえ、それは私の担当ではありませんので…」と、やや冷淡な口調で言われちょっと腹を立てたり、恐縮したりしたものです。
そんなときにジェイさんの動画を訳していて、
Process
という言葉が出てきました。
過去にも色々な場面で出てきた単語で、これを私たちは適宜「プロセス、過程、工程」などと訳してきましたが、そのときはなんとなく訳に迷ってしまいました。
そのときジェイさんはコピーライティングについて話しており、
「その商品がどのように人の役に立つか考え、それを人々の心に届くようなメッセージとして構成し、その商品を実際に買ってもらい、人々の役に立つ、という『プロセス』は、とても報いが大きいものだ」
という意味のことを、伝えようとしておられたのでした。もちろんこの全てを言葉にされることなく、そう伝えようとした、という意味ですが。
それで、字幕が出る時間が短いことを考え、また前後の文脈からもなんとなくそれが伝わるだろうと判断した私は、ざっくりと「その『仕事』は報いが大きい」というように訳したのです。
が…
プロセス=仕事 という方程式が、私にはどうしても不自然に感じました。もちろん、翻訳(特に字幕訳)では、全てを字義通りに、定訳通りに、訳すことはできません。しかし、私にはここで使われた「プロセス」という言葉が、とても大きな意味を帯びているように感じたのです。
もっと個人的な感情を言ってしまうと、「果たして自分は、自分の仕事を『プロセス』として見ているだろうか?」という疑問がむくむくと沸いてきたのでした。
翻訳という仕事は、実はかなり地味です。ひたすらにコンピューターに向かい、言葉と向き合い、その前後にあるものを忘れてしまいそうになることがあります。
自分に割り当てられた仕事、特にそれが専門性に特化している場合に、それに真剣に取り組む姿勢が悪いものだとは思いません。むしろ、日本人ならではの「職人気質」というか、こだわりを持って仕事に取り組む人を私は尊敬し、自分もそうなりたいと思っています。
しかしそれが、その場だけの、独りよがりのものになってしまう傾向は避けたいところです。
ほとんどのビジネスに、ジェイさんが言ったようなプロセスが存在していることでしょう。「どんな人の、どんな問題を解決できるか」「実際に使ってもらったときにどう感じてもらえるか」といったところから始まり、商品やサービスを提供し、それに対するフィードバックをもらい、商品やサービスに反映させる、といったサイクルです。それを無視して、自分の主観だけに頼って「良いもの」を作ったところで、人に対価を支払ってもらえるかと言うと、怪しいところです。もはや「仕事」と呼ぶことすらできないように思います。
特にサービス業などの場合、Service という言葉は文字通り「人に仕える」ことを意味しています。プロセスを意識してこそ、仕事として成り立つように思います。
そういえば「仕事」という言葉にも「仕える」という漢字が使われていますね。
自動車保険の対応を受けたときに、なんとなくこんな風に思ったことを思い出しましたが、組織が大きければ大きいほど、自分の仕事を「プロセス」の一部と見ることは難しくなるのかもしれません。仕事を分担しなければ、クライアントに満足してもらえるような質の高いサービスを提供することは難しいでしょうし。
それでも、自分の仕事を「プロセス」として見ることを忘れないでいたい、と私は思います。
小さなネジが大きな飛行機を支えたり、小さな歯車が大きな時計を動かしたりするのと同じように、小さな小さな自分も、大きなプロセスの一部であることを、常に意識したいものです。
(a_washiyama)
a_washiyama:
ShimaFuji IEM 翻訳チームのメンバーです。
翻訳家としてまだまだ勉強中ですが、ジェイさんのお考えを分かり易く、正確にお伝えできるよう、邁進して参ります!