「教育」のもどかしさ

現在でも社会福祉活動家として有名なヘレン・ケラーは
3才になるころには既に視力、聴力を失い
話すこともできなかったといいます。
ヘレンが7才のときに、家庭教師としてやってきたアン・サリバンは
そんなヘレンに「言葉」を教え、好奇心を育て、それを満たし
ヘレンの成功を支え続けたそうです。
今日でも最も偉大な教育者の1人として、世界的に有名な人物ですね。

井戸の水が、ヘレンの手にかかったときに
サリバンがすかさず ヘレンの手に“WATER” と指文字を書いたことで
ヘレンが「ものには何でも名前があるのね!」と知った というエピソードは
世界中で語り継がれています。

サリバン先生ほど偉大ではなかったとしても
私たちみんな「先生」という存在との出会いを経験しています。
私自身にも「あの先生があのときにいてくれて良かった~」と思える人がいます。
が…

私は実は「教育」という言葉が好きではありません。
それに伴うイメージが「洗脳、押しつけ」というような
ネガティブなものばかりなのです。
学校で先生が「これが答えです。覚えなさい」と一方的に説明し
生徒たちが賢明にノートに書き写している様子が思い浮かびます。
みなさんはどうですか?

しかし”education”という言葉の印象を考えてみると
「教育」のそれとは全く異なったものです。
ある辞書で”education”と引いてみると
「一般的な知識を受けること、または授けること」のほかに
「論理的思考力や判断力を育てる(引き出す)こと」とあります。

例えば、こんな問題について考えてみてください。
日本の小学校の算数の時間に、こんな問題を解くことがあるかもしれません。
4+3=□
答えは一つしかありえませんね。
これが欧米だと、典型的にはこんな問題になっているかもしれません。
□+□=7
これだと、5と2を書いた子も、4と3を書いた子も、1と6を書いた子も正解。
1つの答えを見つけるより、そこまでの「プロセス」を
重視している感じです。

小学生の算数問題の中にすら、大きなメッセージ性を感じてしまいます。

とは言え、”education”の訳として「教育」という言葉が
当てられている以上、そしてそれ以上に相応しい日本語がない以上
私が感じているギャップや違和感はどうすることもできません。

ジェイ・エイブラハム氏が推奨する
コンサルティング販売の基本の考え方には
「クライアントをeducateする」ということが含まれます。
これを初めて訳したときには、心の中でどうしようもない
もどかしさを感じたものでした。
「教育する」という訳を当てれば
「クライアントを洗脳して
何が何でも買ってもらえるように仕向ける」
というような印象を、読者のみなさんに
与えてしまうのではないかと思ったのです。
ジェイさんのコンサルティング販売に関しての
説明を全て読めば、それとは全く異なるものであることが分かります。
「クライアントの話に十分に耳を傾け、質問をし
彼らの本当のニーズとは何かを理解して
ベストな選択肢を共に考える」
そんな概念を、全体を通して理解できると思います。

かのサリバン先生は、こんな名言を残しています。
「子供たちは指示などよりもずっと、導きと共感を必要としている」
なんだか、ジェイさんのコンサルティング販売に繋がるものを感じませんか?

(a_washiyama)


a.washiyama

a_washiyama:
ShimaFuji IEM 翻訳チームのメンバーです。
翻訳家としてまだまだ勉強中ですが、ジェイさんのお考えを分かり易く、正確にお伝えできるよう、邁進して参ります!