「生む性」としての女性が、命を生み育み、社会復帰できる権利について

男性が発言しにくいであろう女性の問題を、同じ女性としてあえて言葉にしていく必要性を強く感じています。リブや女性解放の面々には総攻撃を受けるであろう内容ですが、「声の大きさ」が、より多くの声を代弁しているわけではありません。ずれた論争に対し毅然とペンで戦う姿勢は、子ども達に安全な国家を残すためにも大切ではないでしょうか。日本人が発言を控え、自分の意思を表に出さないことが良いとされてきた全体教育は、戦後の日本を弱体化させる近隣戦勝国の意図がなかったとは言えないからです。

女性が「生む性」なのは、単に「事実」

さて、女性が人生において子を「産む」か「産まないか」は、あくまでもその人の個人の判断です。それを他者がどうこうと言える話ではありません。ですので、私がこれから書いていく内容は、特定の女性個人を指すものでもなく、男女差をことさら強調するためでもありません。周囲の多くが経験している不妊治療の辛さも理解しているつもりですし、育児の孤独、そして育児後の社会復帰の難しさは、実際にコミュニティを運営してきた経験から、そして家族社会学を修め学会発表も行っていた経験から、かなり深く理解しているつもりです。

ところが、SNSなどで女性性のことに触れますと、「今さら、男だの女だの性差で語るのが古い」と自称リベラルの方々には指摘されます。そうでしょうか?古いも新しいもなく、子を産めるのは神代の時代(注!これは比喩ですジョークです、ここ論点じゃない)から女性だけです。進化が何万年経とうとも、未だに男性には子を生むことができません。きっとAIやIoTが発展しても何しても、これだけは決して変化しないでしょう。

そうなんです。「女性は生む性である」というのは、単なる「事実」です。事実は事実としてフラットに受け止める必要があります。外で働いて高い賃金を稼がなくとも、華やかな肩書きがなくとも、女性は女性であるだけで特別な存在であり、子どもを出産してもしなくても、本来、女性というだけで大事に扱われるべき存在であるはずです。そういう「性」なのです。

女性が「生む性」であることを前提に話をしましょう

生みたくても生めない。育てたくても育てられない

農耕民族の歴史だけでなく、猿山を見ても、狩猟民族の女たちの生活を見ても、そもそも育児というのは社会的な活動で、母親一個人に任せておける仕事ではありません。若い適齢期の母体は「産む」ことはできても、子を育むのは社会です。地域社会からも同世代のコミュニティからも断絶された狭いマンションの中で、ホルモンのバランスも崩れて精神的にも危機状態にある出産後の母親が、孤独に育児に耐えねばならない状況に押し込んでいるのは、社会の問題です。そもそも専業主婦という発想自体は世界的にもごく近年のもので、多かれ少なかれ地域のコミュニティによって、子は育まれてきました。子とは本来、社会的な存在なのです。

現在の日本では、子ども一人を育てるためにかかる費用は莫大で、上記のような耐え難きを耐え忍んで出産後を乗り切った母親は、もう二度と子どもを作って育てたいとは思わないでしょう。ましてや育児休業後はたちまちに職場復帰しない限りは、元の職場に戻れることは稀です。しかし、出産直後から無理を重ねるのは、物理的にも精神的にも母体にダメージを残します。

さらには、社会の宝である子どもを産み育てていたにもかかわらず、やがて社会から亡き者として扱われるなどということがあってはなりません。本来、子どもとゆっくり向き合い二度とない育児期間を過ごしたい母親には、長い育児期間を終えても社会に復帰できる選択肢も用意されてなければなりません。

また、一方、子どもを産み落とすだけでは単なる「母体」です。それだけで大きな顔で、公共の場で子どもを連れていれば何をやっても許されるかのような振る舞いは、母親自身も控えねばなりません。子を育てるのは母体ではなく社会なのです。「社会に育てていただく」という謙虚な姿勢もまた、女性には必要かもしれません。

新しい形の地域社会の構成

今後、単身老人家庭がますます増えて行き、その解決策として緩やかな地域コミュニティによる共同生活というものは、否応なしに増えて行くでしょう。テラスハウスの老々バージョンとでも言いましょうか。そのため、今日の頭の固い威張った老人たちは居場所をなくし、コミュニケーション能力の低い老人は「老害」として、例えば郊外の安い公団のようなところに押し込められていくしかなくなるでしょう。現代の姥捨山です。

一方、育児を終えた体力も気力も充実している女性たちは、自身の能力や才能を活かして、緩やかな新しい地域コミュニティを作り、地域での子育てに参画していくことでしょう。介護施設での学童保育も一般化していくでしょうし、空いた小学校の教室を保育所に利用すれば、待機児童の問題は速やかに解決します。児童が減って広すぎる体育館の半分は、お年寄りの体力維持の施設として第三セクターがプログラム提供することもできます。仕事帰りに保育所に子どもを迎えに来たお父さんが、パーソナルでちょっと汗を流す、ということも可能になります。

大学の保育科は座学を減らし、インターンとして学童保育での実務経験を単位換算してあげるのも良いでしょうし、企業の就職前の研修として時給ベースで必須にしても良いかもしれません。

いずれにせよ、その時に圧倒的なリーダーとして社会を牽引するのは、育児後の女性たちです。彼女たちの忍耐力、細やかな気の利かせ方、同時にいくつものプロジェクトをこなす力量、コミュニケーション能力など、あらゆることが日本の宝です。ただ、放置しているだけではただの石です。磨きあげて宝石にできるかどうか、これは私たち先陣の育児を経験した女性労働者がやるべきことではないでしょうか。

社会問題を口にするたび、「政治家になれば?」と揶揄されることがありますが、私は「お金の流れのないところに継続はない」と強く信じています。彼女たちはビジネスになる、お金になるからこそ、立ち上がり着いてきてくれるのです。人は霞を食って生きていくことはできません。お金の流れを変えることで社会は必ず変えられます。もちろんそれは良くも悪くもです。諦めず、希望を持って行えば、社会は必ず良い方向に変わっていきます。

私はそれを、一人の母親の責任として、命が尽きる日までやり続けていきたいのです。

 

(*引用される場合は必ず引用元を明記下さいませ。セミナーなどでの話でも同様です。勝手に使うのは違法です)

 

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島藤真澄 (ShimaFuji IEM代表)

フォーブス誌選出全米5大ビジネスコーチ,ジェイ・エイブラハムの東アジアディレクター(交渉代理人)。様々な案件のプロデュースや海外とのビジネスマネジメントを行う。

ジェイの『限界はあなたの頭の中にしかない』PHP研究所を企画・翻訳。

 

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